大人計画/サッちゃんの明日

  

この間のこと。ひさしぶりの友達と、ひさしぶりな三軒茶屋で、ひさしぶりにごはんを一緒に食べたあと、ひさしぶりで「大人計画」の舞台を見た。


ひさしぶりの友達は、相変わらず貸したままの本を忘れてきているし。友達もわたしも決断力というか、何か前向きなものが欠落していてるので「ここで美味しいものを食べるのっ!」という気概がないまま、ぐるぐるぐると三軒茶屋の街を歩いて、全然全く取り立ててぐっとくる感じになれない定食屋さんに入って、普通の定食のご飯を食べた。


ホーム入所していた友達のお父さんが亡くなったこと。わたしのフルサトのおばあちゃんが大往生だったこと。会うのが一年ぶりぐらいなこと。友達の仕事が相変わらずなこと。わたしの仕事がなかなかに忙しくなったこと。お互いのねこが元気でやっていること。友達が中国語の勉強を続けていること。映画館にずっと行ってないけど「空気人形」はみたいと思っていること。漫画喫茶はソフトクリームが巻き放題食べ放題なんだよ。なんて話をぽつりぽつりと話した。話していたら、舞台はひゅうぅぅと暗くなって、ナラクノソコに落ちてしまったみたいな、あの感じにつかまった。


「サッちゃんの明日」は、「ひさしぶりの」っていう気持ちをさらに強化してくれる舞台だった。無条件な安心感っていうのかな?なにかが壊れていて歪んでいて汚れている感じに一息つける。うん、この世界。ってすぐに思った。


芝居って舞台って、大概のものが全力で全身で真っ向勝負で挑んでくる印象なものが多いんだけどーもちろん、それはそれで素晴らしくってそれを求めるときも確かにあるんだけどー「大人計画(というか、松尾スズキかなぁ)」って、本気の後に、ちょっとした照れや脱力や自嘲があって、そこに「品」のようのようなものを感じてしまうの。それこそが、大事なもののように感じてしまうの。だよ。


その中で、すくっと立ってる感じの鈴木蘭々が、すっごくよかった。この人は、いろんなものが上手に真空パックされていたんじゃなかろうか。なんて思った。晒されていない、すり減っていない感じ。そんな感じに嬉しくなる。終盤にむかってどんどんぐずぐずになっていく舞台にも嬉しくなりながら。ある種の爽快感に身を任せていたような。そして、役者って生き物は、身体能力が高い生き物なんだなあ。肉が生きて動いて伝えてくるんだなあ。と、改めてそんなことをしみじみ思った。それこそが信用に足りることなんだって。


ひさしぶりの友達とは、渋谷の駅であっさり別れた。いつものように、感想は一方的にわたしが喋って、彼は、うんうんと聞いていた。うんうんと聞いてもらえることが嬉しくって、わたしはいつもべらべら喋ってしまうんだよなあ。と、ひとりになったわたしはちょっと自嘲したりして。


持っているものはそれぞれ違うし、なかなか思うようには変わっていけない毎日ではあるけれど、ある種の「品」のようなもの、ぶれない「核」みたいなもの、わたしの中にもあるといいな。備えていけたらいいな。なんて。ちよっと唐突にでもしっかりと静かに思う、ある日の井の頭線の帰り道でありました。何かに触れるってこと、やっぱり大事だな。とてもとても。

死に顔を見、手をあわせてくることは、仕事をするということの中で、いつもヒトツの区切りになる。

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いつかの夏のこと。


同僚という名のおばちゃんと、ずっと担当してきた利用者さんのお通夜に出掛けた。死に顔を見、手をあわせてくることは、仕事をするということの中で、いつもヒトツの区切りになる。今夜もそのヒトツの区切りとやらをつけるため、善福寺川沿いにある小さな葬儀場に出掛けた。 亡くなったのは、103歳になるお婆さん。大往生だあっつ。幸せな一生だったよねぇ。あやかりたいよぉ。と、誰からともなく感心とも羨望とも感嘆ともとれる声が漏れ聞こえてくる。すすりあげるような気配も時々届いてくるけれど、圧倒的に賑やかで温かい微笑ましいお通夜だった。



死に顔は、本当に奇麗だったーこんなに鼻が高かったんだあ。こんなに彫りが深い人だっけ?いかにもさっぱりとした輪郭だったんだなあ。肌もこんなにキレイでー生きている時には見過ごしていたあれこれに、しばし時を忘れて見蕩れてしまった。生々しいものをを脱ぎ捨てたような、清々とした顔。生きることを手放して手に入れたような美しさ。 最後にと、そうっと触れたら、ひんやりとしていて心地よくしっとりと潤っているようにも感じられて。私もいつか、こんなしっとりとした冷たさを手に入れられる日がくるのかなあとぼんやりと思った。


そうだ、私はいつもこのおばあさんを羨ましいなあと思っていたんだ。百歳を過ぎて、人生の大概のことをやり尽くして、終わりに向かってゆっくりと漂っているような彼女の毎日を。不謹慎承知で羨ましいなあと思っていたのだ。息子さんの死も、世の中の悲しいニュースも、誰かの話す配慮に欠けた言葉も、彼女の毎日を脅かすことは、もうなかった。ただただゆったりとゆっくりと終わりに向かって流れているようだった。美味しいものを口にすると口元が緩んでにいっーとなった。体を拭いてあげると、気持ちがいいのか目がさらに細まった。立ち上がる時は一緒になって「どっこいしょ」と言っていた。虫眼鏡を使ってチラシや会報を読むのが好きだった。時々は新しい服でおしゃれして出掛けたいとタダをこねた。そんな姿が川に重なった。海に向かってどんどん広がって、広がりながら自身も穏やかにおおらかになっていく川。彼女は今日、海に注ぎ込んだのかもしれないねえ。なんて誰にいうでもなくヒトリ思った。



お通夜からの帰り道、同僚という名のおばちゃんが「ここのスーパーね、この時間になると値引きが始まンのよ、安くなるからさあ、買ってこうよぉ」というので、買い物カゴを振りかざして半額商品に群がる人々に混じってみた。メカブとタラコとサクのまんまのお刺身を確保した私は、ちょっと得意気だったかもしれない。メカブとタラコとお刺し身が食べたかったのかは分からないけど。とにかく、負けないように果敢に挑んだ。戦利品の入ったカゴを「ほらっ」と見せて、おばちゃんに「ヨシヨシヨクヤッタヨクヤッタエライエライ」と無性に褒めてもらいたかっただけなのかもしれないけど。


帰り道、昼間の暑さが嘘みたいで、涼しい風がすいっーと吹いた。「いい夜だなぁ」おばちゃんと別れた私の口からは、そんな言葉がぽろっとこぼれた。口に出したら、もっともっといい夜になったような気持ちになって、自転車のペダルをぐいんと漕いだ。帰ったら、メカブとタラコとサクのまんまのお刺身を食べるんだあと、ぐいんぐいんペダルを漕いでねこたちの待ってる部屋を目指した。

 「A」と「E」と「G」。

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「カレーを作ったから食べにおいでよ」というあまりにも魅力的な誘い言葉に「へいへい」と、二つ返事で頷いて友達の家に遊びに行く。少子化少子化と言われている昨今ではあるけれど、我が友達は立派に三人の子供を持つ父親なのでありました。


末っ子のあーちゃんがすっかり私に懐いてくれた。ので、二人してブルースハープを携えて散歩に行く。あーちゃんはカラダを揺らし目を閉じて、なんとも上手にハープを吹いた。呼吸するみたいに風に乗せるみたいにお話をするみたいに。すっかり感心し、私も呼吸するみたいに風に乗せるみたいにお話をするみたいに吹けるようになるように、あーちゃんに続いてみた。公園の風に紛れて、二人でえんえんとハープを練習する。公園に遊びにきていた子供たちが不思議そうな顔で振り返る。あーちゃんはちょっと得意そうな顔をして見返したりしていたっけ。


昼ごはんは、実に魅力的な「夕べの残りのカレー」をいただく。夜は延々と続くかと思われた「たこ焼きパーティー」。その大騒ぎぶりが、楽しかった。開けっぱなしの窓から入ってくる風がびっくりするほど、涼しかった。子供たちが自分の焼いたたこ焼きを食べろ食べろと皿に盛り上げてくれるのが、嬉しかった。「たこ焼きミックス」に葱と玉葱を追加しただけのたこ焼きが実に実に、美味しかった。奥さんまでが子供に負けじとたこ焼き作りに熱中している様が、素晴らしくって。その家族として完璧な感じに何だか感じ入ってしまった。


たこ焼きをつまみながら友達からギターを習った。今までだっていくらでも教えてくれる人はいたんだけど、なんとなく気恥ずかしく習えなかったギターを今夜は心置きなく習う。「A」と「E」と「G」。「A」と「E」と「G」。「A」と「E」と「G」。「A」と「E」と「G」。繰り返しおさらいする。おさらいしては、ジャラジャラとひいてみる。弾いてみたらば、いい音がして嬉しくなった。



泊まっていってー泊まっていってーと、あーちゃんやなっちゃんやゆうくんにせがまれたけど、ねこが待っているからねーと、帰り支度を始めた私に、シールやペンダントやビーズ細工の道具なんかを細々とプレゼントしてくれるあーちゃん。今日はすっごく楽しかったねーと繰り返し言うなっちゃん。帰ると言うのに、ちょっとこれ見ていってーとパソコンの前に引っぱるゆうくん。そんなみんなにさよならするのはさみしかったけど、賑やかに駅までの道を送ってくれて、手をつないで歩いてくれて、いつまでも手を振って見送ってくれた。



友達の家は、狭くてごちゃごちゃしていてすごくすごくうるさかったけど。実に家族だった。実に実に家族だった。その「真っ当」な感じが、私をすごく嬉しくしてくれた。

死ぬまでにしたい10のこと/ イサベル・コイシェット

  

死ぬまでにしたい10のこと [DVD]この映画は、好き嫌いが別れるのかもしれない。彼女の選択に首をかしげる人もいるかもしれない。都合がいいと思うかもしれない。でも、余命三ヶ月と宣告された23歳のアン。彼女が死を宣告されてはじめて「生きる」ことを始めたこの映画を、私は「好き」といいたいし。すごくよく分かった。 皮肉な話だけれど、きっと彼女は生きながら生きていなかった。生きていない彼女は、様々なことに疑問を感じることがなかったのだな。疑問を感じない毎日の中で漫然と生きていた。死を宣告された彼女は、はじめて「生きる」ことを意識する。意識してはじめて、淡々とでも生き生きと「生きる」ことを開始したのだ。


死ぬまでにしたい10のこと」を書き上げ、行動に移す彼女。それは少しだけ、身勝手にも映るのだけど。だけど、と、私は思う。自分がいなくなった後も、当たり前に世界は続いていくということを突きつけられてしまった人間は、どうしようもなく孤独で。孤独というモノは、何をもって臨んでも埋めることの出来ない大きな穴ぼこのようなモノで。その穴ぼこを抱えながら、それでも未来ある人々のこれからを祈らなくてはならないのだから。


彼女の「10のこと」には、夫に対しての「何かしら」が出てこない。最近仕事を見つけたばかりの甲斐性なしのでもとびっきりやさしい夫に、彼女の思いは及ばないようにも思ってしまう。そればかりか、残された人生で彼女は知らない誰かと恋に落ち、夢中にさせることを望むし。彼にも新しいパートナーをと画策するのだけれど。それは有り体にいってしまえば、不倫話とも言えるのかもしれないけれど。でも、と、やっぱり私は思ってしまう。彼女が夫に乞われて口ずさむ歌「時々は愛せないけれど、だけど、変わらない私の愛を信じてね(そんなニュアンスでした)」。この歌は矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど。でも、と、私はやっぱり思ってしまう。私は、この歌が共に暮らすモノへの。日々をやさしく作り上げていくモノへの、正直で最高のラブソングだと思うから。


人は毎日の中で、案外簡単に「時々は愛せなく」なるのかもしれない。毎日や人生は屈強で頑固だから、簡単に屈してしまうこともあるかもしれない。それでも、愛せないことも含めて「信じてね」と歌う歌のなかにある本当が。最高のラブソングだと思ったのだよ。だから。この歌が何時までも耳に残ってる。



最後になるけど、サラ・ポーリーの可愛らしさはもちろん。彼女のお医者さんや、ダイエットに夢中な過食な同僚、気位の高いお母さんとか、脇役も味わい深かったし。本や音楽なんかの使い方も気が利いてた。映画としてのトーン(映画を見る上でここは大事!)もとても好みで。しばらくは、ぼうっと映画に溺れていただけのわたしでありました。

そこはがんばって、久しぶりにがんばって、泣きませんでした。

この間のこと、久しぶりに、本当に本当に久しぶりに仲の良かった友達にばったり偶然会う。気配は感じていたけれど、もう十年近く会っていなかったし連絡というほどの連絡も取っていなかった友達。高速バスというヤツは、フルサトの名もない町とこちら東京をダイレクトに結ぶタイムマシーンのような不思議な乗り物だから、新宿西口のバスターミナルに行くだけで、一人でないような何かどこかとつながっているような感覚を覚えるし、いくら連絡が途絶えたって忘れたままの日々を送っていたって、そこに懐かしい人たちの息づかいのようなもの感じずにはいられないんだけど。けど、今日まで、こんな奇跡のような偶然はなかなか引き起こしてくれなかった。けどけど、やっとその奇跡というやつに巡り会って、今日大きくポンと肩を叩かれた。


びっくりと言えばびっくりだけど、どこか予感めいたびっくり。懐かしい彼女。ひたすらに嬉しく。はしゃぎたい気持ち。高揚したまま、互いの近況をべらべらしゃべった。いろんなことを躊躇せず自分の真ん中だけで喋っている感じ。説明もいらない。シンプルで不親切でいい加減で、それで全然かまわないっていう楽ちんさ。うんうん、彼女と話すいつもの感じ。久しぶりのセッションみたいに会話をする。会話を会話として楽しみながら、お互いのお互いらしさを確認していくような時間。


考えてみれば、彼女とビールを二人っきりで酌み交わしたのは、これがはじめてのこと。そんな不思議を噛み締めつつ。自分がリコンというやつを経験して、目の前がーたとえなんかじゃなくー真っ暗になって、明日が見えなくなってしまったこと。今までのことが全部くだらなく嘘くさくみえてしまったこと。そしてこれからを、どう生きていっていいのか分からなくなったってこと。そんなあれこれを、喋る。先立つ嬉しさの波に身を任せて。はしゃいだ気持ちのまま、喋る。彼女も個人的に大きな節目のような、降ってわいたような複雑な出来事に捕まっていたけれど、やっぱり悲観的でなく、互いの再会の喜びの中に、喋る。自嘲気味に自分自身を茶化しながら喋る姿は、いかにもいつもの(いつかの)彼女らしく、その「らしさ」の部分にうっかり涙ぐみそうになる。


悲しいってことは、悲しいだけでできていなくって。楽しいことも、楽しいだけでできていてはくれない。泣き笑いのような気持ちと顔。すごくいいなあと思う。いつだつて、どんなに辛いなあと思っても、働かなくっちゃならなかったし、ごはんは普通においしかったし、仕事でくたくたになった体はよく眠れて、確実に回復してくれた。自分自身の心身の丈夫さには苦笑いするしかなかった。全く全然現状はよくなんないのに。仕事と仕事の合間は何処かが壊れてしまったみたいに、涙がボロボロ流れて止まらないのに。仕事先に辿り着いてドアを開けると案外平気で。特別がんばっている訳でもなく。なんとなくそうなってしまう自分に再び苦笑いするしかなかったっけ。そんなわたしを眺めていた病人である口の減らないおじいさんは「あんたは見るからに元気がみなぎっていて、なんだかみてると時々腹がたつんだよ」と憎まれ口をきいてきた。その憎まれ口に「わたしだって…」と言いかけて、はたと、気がつく。


わたしは今、目の前は真っ暗で、どう生きていったらいいか、この先の自分がどうなるのか、全く分からない。不安で心細くて情けなくて悲しいばかりの毎日だけど。確実に病み、死に向かっているおじいさんからは、わたしは、ひたすらに輝く命の塊のように見えるんだってこと。わたしには見えないわたしの明日が、このおじいさんには、見えているのかもしれないってこと。このおじいさんにとって、わたしという存在は、命の塊で、エネルギーの塊で、それはまぶしすぎるほどで。この命はまだまだ続くことが容易に約束されていて。それは、どこか腹立たしいことでもあるってこと。そんなことを考えていたら、自分の辛さがちっちぇえなあと思った。自分自身もちっちぇえなあと思った。ちっちぇえからって楽になるわけでも軽くなるわけでもなくなるわけでもないんだけど、空に向かってでっかい声で「ちっちぇえなあ」と、叫びたくなった。


って、そんな話を彼女に全部喋れたかどうかも、すでにもう記憶にないけど、とにかく彼女がぽつりと「すごおく辛い思いをしたんだね」と言ったとき、迂闊にも、涙がこぼれかけたけど、そこはがんばって、久しぶりにがんばって、泣きませんでした。わたし、がんばった。彼女と、彼女の大切な人が、今、幸せでありますように。

コロシヤ

 

子どもの頃
フルサトにはコロシヤがやってきた
年に一度か二度
村の公民館の広場にやってきて、店開きをした



私たちはおばあちゃんに連れられて
コロシヤに会いにいった
殺してもらう動物を手に手に
順番待ちの長い列に並んだ



年をとって家畜としての役目を果たせなくなった
ニワトリとか
山羊とか
もう死ぬのを待つばかりの年老いたウサギとか
チャボとか
そんな動物達を抱えた
長い長い列が出来た
コロシヤはいつも村の人たちで賑わっていた


コロシヤはいつも
刃物を使って一息に動物達の息の根を止めた
あっという間にくるり剥いて肉と毛皮に分けた
毛皮や内蔵は引き受けて
私たちには肉になった動物達が渡された
それをお金を払って受け取って
まだ温かいその塊を手に手に家に帰った


家に帰ると
おばあちゃんが動物達をおいしく煮てくれた
裏の畑でとれた野菜もたくさん入った
飼っていたニワトリも
妹達と一把づつ名前を付けて可愛がっていたウサギも
私たちはみんなみんな残さず食べた


年老いた動物達はみんなとても堅かったけれど
おばあちゃんはいつも
ちゃんと噛んで残さず食べらっしよ。と、厳しく言ったから
私たちは言いつけを守って
しっかりとよくよく噛んで食べた
いつも残すことなんて思いつきもしなかった

新編性悪猫/やまだ紫

gennoさんとこ( http://d.hatena.ne.jp/genno/20090508)で、もうひとつの訃報をしりました。「性悪猫 asin:4480023879 」のやまだ紫さん。この本はAさんに教えてもらったんだった。両手にすっぽりおさまるちくま文庫を、わたしは眠る前に何度も何度も繰り返して読んだものだった。やわらかい柔毛のような線でかかれた、年増のねこたちのよしなしごと。それが、ただただ日だまりのような「ぬくとさ」なのだ。日陰の寒さをどこかで思い出させる「ぬくとさ」なんだ。

 


「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば 」


「性悪」にひかれるのも、未だ気恥ずかしく。子供など、産んだこともなく。月並みな言葉を借りれば、人間が少し苦手で、猫を飼っている。その形と手触りとたたずまいが好きだからーそんな私が読んでいるのは、やまだ紫の「新編性悪猫」。すれっからしで、とうがたっていて、口の減らない。そんな年増猫たちを、抱きしめたくなるのはナゼダロウ。そして、この私の体だって、自分自身でぎゅうと抱きしめてあげたくなるのは、ナゼダロウ。


「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば 」


あとはいらない。あとはもう誰もいらない。お日様いっこあれば。あとはもう何もいらない。わたしのお日様があれば。それでいい。


「たいていの やさしさは あとで 寒いもの わたしなれば にげてしまうよ」


例えば、たいていのやさしさを、あげられるかもしれないとか。例えば、たいていのやさしさを、もらえるかもしれないとか。そんなこと、とうの昔に逃げ出したはずじゃなかったろうか。誰にも寒いおもいなど、させたくもなく。誰からも寒いおもいなど、させられたくもなく。


「たとい ひとときなれど 日向は ぬくいもの ぬくいところがいいよ」


ぬくいところで丸まって、もう日がな一日暮らすのが、わたしの当たり前じゃなかったろうか。理屈も言わない。もったいぶらない。さみしがらない。欲しがらない。じっと待たない。こんな所で丸まって、誰もわたしのことなど気づきもしない。そんな一日は素敵だと思うよ。ココロから。


「持たないことは 怖くないよ 持ってしまうと 怖くなるよ 失くすのが 怖いよ」


怖いものなどないと言ったはずじゃなかろうか。鼻を鳴らして言ったはずじゃなかろうか。いつからそんなに、びくびくと、そわそわと、弱気になったものだろう。



「わたしはね 子を産むとき 『母親のわたし』も いっしょに産んだよ」



あああっつ、子を産むってどんなだろうね。子を持ちたいって思うのはどんなだろうね。「あんたも産んでみ。もう女はホルモンだからね、ガハハハ」と笑う友達に、見事なまでに気圧されて。「アタマで考えてるうちはダメ、ダメ、ガハハハ」とこれでもかと笑う友達に「わたしまけましたわ」と回文で返しながら。それでもホントは羨ましかった。彼女のことがココロから眩しかったよ。 子供を産むとか育てるとか。きっともう、それは、それだけで、なまなかなものでないから。自分も産んで。自分も育てて。子供に負けぬぐらい、いろんな思いを辿りなおして行くのだろうね。もう世間なんかお構いなしで。そして、アナタがその子の母さんで。いつまでたっても、どこまで行っても母さんで。誰かに無条件に頼られて愛されて愛して、うらやましいよ。ほんとうに。


「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば 」


斜に構えるのでもなく、茶化すのでもなく、本当に、母であるアナタという人が眩しいよ。そういうただ中に、自分を置きたくて。でも、できなくて。どうしてもできなくて。いつまでも子供のふりをして、鍵なんかちゃらちゃらいわせて歩いているんだ、私はね。できることなら。そう、出来ることなら、アナタにわたしをもう一度産んで欲しいなんて思っているんだ。アナタを母さんと呼んで良いですか。なんて。アナタを母さんと呼んで良いですか。なんて。なんて。そんなことばかり考えているんだよ。 


それでもこの本を読んでいると、自分が母さんになったみたいな。誰かの母さんになったみたいな。誰かにその昔、無条件に頼られて愛されて愛したような、ありもしない記憶が蘇ってきて。やっぱり自分をぎゅうと抱きしめてあげたくなるんだよ。

ありったけのご冥福を祈らせてください。