そこはがんばって、久しぶりにがんばって、泣きませんでした。

この間のこと、久しぶりに、本当に本当に久しぶりに仲の良かった友達にばったり偶然会う。気配は感じていたけれど、もう十年近く会っていなかったし連絡というほどの連絡も取っていなかった友達。高速バスというヤツは、フルサトの名もない町とこちら東京をダイレクトに結ぶタイムマシーンのような不思議な乗り物だから、新宿西口のバスターミナルに行くだけで、一人でないような何かどこかとつながっているような感覚を覚えるし、いくら連絡が途絶えたって忘れたままの日々を送っていたって、そこに懐かしい人たちの息づかいのようなもの感じずにはいられないんだけど。けど、今日まで、こんな奇跡のような偶然はなかなか引き起こしてくれなかった。けどけど、やっとその奇跡というやつに巡り会って、今日大きくポンと肩を叩かれた。


びっくりと言えばびっくりだけど、どこか予感めいたびっくり。懐かしい彼女。ひたすらに嬉しく。はしゃぎたい気持ち。高揚したまま、互いの近況をべらべらしゃべった。いろんなことを躊躇せず自分の真ん中だけで喋っている感じ。説明もいらない。シンプルで不親切でいい加減で、それで全然かまわないっていう楽ちんさ。うんうん、彼女と話すいつもの感じ。久しぶりのセッションみたいに会話をする。会話を会話として楽しみながら、お互いのお互いらしさを確認していくような時間。


考えてみれば、彼女とビールを二人っきりで酌み交わしたのは、これがはじめてのこと。そんな不思議を噛み締めつつ。自分がリコンというやつを経験して、目の前がーたとえなんかじゃなくー真っ暗になって、明日が見えなくなってしまったこと。今までのことが全部くだらなく嘘くさくみえてしまったこと。そしてこれからを、どう生きていっていいのか分からなくなったってこと。そんなあれこれを、喋る。先立つ嬉しさの波に身を任せて。はしゃいだ気持ちのまま、喋る。彼女も個人的に大きな節目のような、降ってわいたような複雑な出来事に捕まっていたけれど、やっぱり悲観的でなく、互いの再会の喜びの中に、喋る。自嘲気味に自分自身を茶化しながら喋る姿は、いかにもいつもの(いつかの)彼女らしく、その「らしさ」の部分にうっかり涙ぐみそうになる。


悲しいってことは、悲しいだけでできていなくって。楽しいことも、楽しいだけでできていてはくれない。泣き笑いのような気持ちと顔。すごくいいなあと思う。いつだつて、どんなに辛いなあと思っても、働かなくっちゃならなかったし、ごはんは普通においしかったし、仕事でくたくたになった体はよく眠れて、確実に回復してくれた。自分自身の心身の丈夫さには苦笑いするしかなかった。全く全然現状はよくなんないのに。仕事と仕事の合間は何処かが壊れてしまったみたいに、涙がボロボロ流れて止まらないのに。仕事先に辿り着いてドアを開けると案外平気で。特別がんばっている訳でもなく。なんとなくそうなってしまう自分に再び苦笑いするしかなかったっけ。そんなわたしを眺めていた病人である口の減らないおじいさんは「あんたは見るからに元気がみなぎっていて、なんだかみてると時々腹がたつんだよ」と憎まれ口をきいてきた。その憎まれ口に「わたしだって…」と言いかけて、はたと、気がつく。


わたしは今、目の前は真っ暗で、どう生きていったらいいか、この先の自分がどうなるのか、全く分からない。不安で心細くて情けなくて悲しいばかりの毎日だけど。確実に病み、死に向かっているおじいさんからは、わたしは、ひたすらに輝く命の塊のように見えるんだってこと。わたしには見えないわたしの明日が、このおじいさんには、見えているのかもしれないってこと。このおじいさんにとって、わたしという存在は、命の塊で、エネルギーの塊で、それはまぶしすぎるほどで。この命はまだまだ続くことが容易に約束されていて。それは、どこか腹立たしいことでもあるってこと。そんなことを考えていたら、自分の辛さがちっちぇえなあと思った。自分自身もちっちぇえなあと思った。ちっちぇえからって楽になるわけでも軽くなるわけでもなくなるわけでもないんだけど、空に向かってでっかい声で「ちっちぇえなあ」と、叫びたくなった。


って、そんな話を彼女に全部喋れたかどうかも、すでにもう記憶にないけど、とにかく彼女がぽつりと「すごおく辛い思いをしたんだね」と言ったとき、迂闊にも、涙がこぼれかけたけど、そこはがんばって、久しぶりにがんばって、泣きませんでした。わたし、がんばった。彼女と、彼女の大切な人が、今、幸せでありますように。