新編性悪猫/やまだ紫

gennoさんとこ( http://d.hatena.ne.jp/genno/20090508)で、もうひとつの訃報をしりました。「性悪猫 asin:4480023879 」のやまだ紫さん。この本はAさんに教えてもらったんだった。両手にすっぽりおさまるちくま文庫を、わたしは眠る前に何度も何度も繰り返して読んだものだった。やわらかい柔毛のような線でかかれた、年増のねこたちのよしなしごと。それが、ただただ日だまりのような「ぬくとさ」なのだ。日陰の寒さをどこかで思い出させる「ぬくとさ」なんだ。

 


「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば 」


「性悪」にひかれるのも、未だ気恥ずかしく。子供など、産んだこともなく。月並みな言葉を借りれば、人間が少し苦手で、猫を飼っている。その形と手触りとたたずまいが好きだからーそんな私が読んでいるのは、やまだ紫の「新編性悪猫」。すれっからしで、とうがたっていて、口の減らない。そんな年増猫たちを、抱きしめたくなるのはナゼダロウ。そして、この私の体だって、自分自身でぎゅうと抱きしめてあげたくなるのは、ナゼダロウ。


「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば 」


あとはいらない。あとはもう誰もいらない。お日様いっこあれば。あとはもう何もいらない。わたしのお日様があれば。それでいい。


「たいていの やさしさは あとで 寒いもの わたしなれば にげてしまうよ」


例えば、たいていのやさしさを、あげられるかもしれないとか。例えば、たいていのやさしさを、もらえるかもしれないとか。そんなこと、とうの昔に逃げ出したはずじゃなかったろうか。誰にも寒いおもいなど、させたくもなく。誰からも寒いおもいなど、させられたくもなく。


「たとい ひとときなれど 日向は ぬくいもの ぬくいところがいいよ」


ぬくいところで丸まって、もう日がな一日暮らすのが、わたしの当たり前じゃなかったろうか。理屈も言わない。もったいぶらない。さみしがらない。欲しがらない。じっと待たない。こんな所で丸まって、誰もわたしのことなど気づきもしない。そんな一日は素敵だと思うよ。ココロから。


「持たないことは 怖くないよ 持ってしまうと 怖くなるよ 失くすのが 怖いよ」


怖いものなどないと言ったはずじゃなかろうか。鼻を鳴らして言ったはずじゃなかろうか。いつからそんなに、びくびくと、そわそわと、弱気になったものだろう。



「わたしはね 子を産むとき 『母親のわたし』も いっしょに産んだよ」



あああっつ、子を産むってどんなだろうね。子を持ちたいって思うのはどんなだろうね。「あんたも産んでみ。もう女はホルモンだからね、ガハハハ」と笑う友達に、見事なまでに気圧されて。「アタマで考えてるうちはダメ、ダメ、ガハハハ」とこれでもかと笑う友達に「わたしまけましたわ」と回文で返しながら。それでもホントは羨ましかった。彼女のことがココロから眩しかったよ。 子供を産むとか育てるとか。きっともう、それは、それだけで、なまなかなものでないから。自分も産んで。自分も育てて。子供に負けぬぐらい、いろんな思いを辿りなおして行くのだろうね。もう世間なんかお構いなしで。そして、アナタがその子の母さんで。いつまでたっても、どこまで行っても母さんで。誰かに無条件に頼られて愛されて愛して、うらやましいよ。ほんとうに。


「せけんなど どうでもいいのです お日様いっこ あれば 」


斜に構えるのでもなく、茶化すのでもなく、本当に、母であるアナタという人が眩しいよ。そういうただ中に、自分を置きたくて。でも、できなくて。どうしてもできなくて。いつまでも子供のふりをして、鍵なんかちゃらちゃらいわせて歩いているんだ、私はね。できることなら。そう、出来ることなら、アナタにわたしをもう一度産んで欲しいなんて思っているんだ。アナタを母さんと呼んで良いですか。なんて。アナタを母さんと呼んで良いですか。なんて。なんて。そんなことばかり考えているんだよ。 


それでもこの本を読んでいると、自分が母さんになったみたいな。誰かの母さんになったみたいな。誰かにその昔、無条件に頼られて愛されて愛したような、ありもしない記憶が蘇ってきて。やっぱり自分をぎゅうと抱きしめてあげたくなるんだよ。

ありったけのご冥福を祈らせてください。