Glad All Over/忌野清志郎&仲井戸麗市

makisuke2003-12-20


キヨシロウの歌を(声を)、私は今でも片手間に聴く事なんかできない。それは彼の歌の中に「あの頃」の私が冷凍保存されているから。だけじゃない。私はいつだって、彼の言葉の「伝達能力」に魅せられてしまうのだ。彼の言葉の持つ引力に惹き付けられてしまうのだ。

もちろん彼の「歌詞」も大好きだ。その「歌詞」を集めた「詩集(エリーゼのために)」は、今でも私の宝物でもある。だけど、それだけじゃない。

彼の言葉の「処理能力」に、私はいつも夢中になってしまう。彼は「意味」を歌いながらに分解してしまう。壊してしまう。彼にかかる時「愛してる」はいつの間にか「あ・い・し・て・る」になる。独立した五つの音の組み合わせに分解されて。そしてたちまちその音さえも、もっと細かい単位に分解されていく。言ってみれば原子レベルに。そう。「ai shi te ru」に。母音と子音の組み合わせ。彼の歌を聴きながら、私はしばし言葉の成り立ちに思いを馳せてしまう。そして、そこまで分解されたはずの言葉なのに、全く意味を失わない。いや、失わないどころか、さらにいろんな表情や感情を折り込んで聞こえてくるのだ。

意味を壊して、もっと豊かな意味を手に入れるとでも言うように。意味を捨てて、言葉そのものの質に触れるとでも言うように。

それはちょうど「愛している」という言葉が、とても複雑で多面的に出来ているように。そして、私がいつでも「ココロ」と「アタマ」を切り離そうともがいてるように。彼はそれを私の前でいとも簡単にやってのけるのだ。

キヨシロウはやっぱり私にいろんなものを思い出させてくれる人なのだ。

それでも、その複雑さや言葉の力ばかりを言い立てるのは、いかにも片手落ちだとやはり思う。何よりもそれだけじゃツマラナイ。「愛している」という言葉が観念ばかりで成り立つわけでなく、一緒に流す汗やら涙やら溜め息やら、もっとプライヴェートな素敵な味や匂いやクスクス笑いや手触りで成り立っているように。彼のリズムやヴァイブレーションを私のカラダが感じる事が「キモチE」のだ。そしてもっと単純に、私が彼を求めていることにも気付くのだ。


このアルバム。1994.8.13。言ってしまえば、とある夏の日。日比谷の野外音楽堂でで行われた忌野清志郎仲井戸麗市のライブアルバム。この(まさに)奇跡のようなアルバムを、私は繰り返し繰り返し聴いている。私たちに奇跡は起こるって事を(もう一度)信じさせてくれたアルバムを。蝉の声が溢れかえるような野音の夕闇や、そこに吹いたであろう幸運な風や、誰かの汗や涙や声にならない叫びとか。そんなものすべてがこのアルバムから匂い出しそうだよ。

「俺たちよそ者 どこへ行ったって」

と、始まるこのアルバムを耳にする時。私の中かからいろんな言葉や気持ちが溢れ出て、いつでも何処でも私は涙ぐむ。それはきっと魂の嗚咽に近い。キヨシロウの原子レベルの声に鳥肌を立てながら。私はヘッドフォンを付けたまま、町の中で迷子になる。

彼は、何処にも帰れない、何処にも属せない。「永遠のよそ者」だ。その孤独とその身軽さと気高さを思う時、私は自分を持て余し「あの頃」とおんなじだけ強く「不安」と「希望」に掻き立てられる。

言葉にならない言葉が、込み上げてきて。私は気が狂ってしまいそうだよ。