介護マシーン

もう会えない人もう会えない人
今日は私が担当しているおじいさんが退院をした。ずっと帰ってきたかった、2ヶ月ぶりの我が家だ。二人暮らしだった奥さん(おばあさん)始め、娘さんやら息子さんやらその連れあいさん達やらが集まって、お祝いをした。私はヘルパーとして歩行の介助やおじいさんのためのミキサー食を作りに行った。退院といっても、一時帰宅の色合いが強くって、本人始め周囲が一日でも我が家で過ごさせてあげたいと、強く強く希望して敵った帰宅だった。この帰宅が一日だけに終わってしまうかもしれないし、一週間続くかもしれないし、ひと月続いてくれることもあるかもしれない。そんな不安定さ。誰もがみんなこのお祝いが完全なる退院祝いでないことを知っているし、その先に何があるかもちゃんと分かっているけれど、それでもみんな嬉しそうで、私だって負けじと嬉しくなる。百歳を目前にしたおじいさんは、歩くのも食べるのも体を横たえるのも、必死になってやっている。家中に張り巡らされた手すりを伝ってゆっくりゆっくり進むし、どろどろの食事はいかにも食欲をそそらないけれど、ひと匙ひと匙すくっては慎重に口に運んでいる。脳みそは常にクリアーで声自体は弱々しいけれど、繰り出す会話は皮肉が利いていてなかなかパンチがあるみたい。ちっとも入院前と変わっていない。そんな様子をみんなが見るともなしに見守って、談笑し合ってる。幸せな光景だった。

介護の仕事を始めた当初、いろんな患者をみるにつれ、どうしてこの人は生きているのダロウ?どうしてこんなに生に執着するのダロウ?と、思わされることが、よくあった。正直言ってしまうと、少しだけそういう姿を冷ややかに見ていた部分があったと思う。「生きていること」ただそれだけが目的になってしまうなんて、なんてつまらないんだろうって、そう思ったり。

でも最近思うのは、人間には寿命があるのだなぁってこと。寿命が続くその日まで生きていかなくっちゃいけないんだなぁってこと。「生きていること」ただそれだけが目的だって、全然いいんだなぁってこと。「生きていること」ただそれだけが、いろんな人にいろんな気持ちをくれるんだなぁってこと。まだまだ「生に執着」は持てないけれど、冷ややかに見ていた自分が愚かだったということは、よく分かった。そして疲れていたけど、今日仕事に入って本当によかったとそう思った。