介護マシーンとしてのワタクシ/ターミナルケアに携わる

春のサラダ



今日から、末期癌の方のターミナルケア*1に携わることに。わたしにとってターミナルケアは、はじめての経験。そもそも在宅におけるターミナルケアというのはかなり少ないこと、稀なことではあると思う。


夕食介助。テーブルにご家族が用意して下さった食事を並べていると「食べたい」と、小さな声が聞こえてくる。食事をしっかり目で追っている様子も伝わってくる。引き継ぎのノートには「食欲なし、ほとんど召し上がらず」「食欲なし」「食欲なし」の記述が続いていたので、まずは「食欲」があるのだなということを感じ安堵する。じゃがいもの味噌汁をよそい、お茶をいれ、早速食事をすすめる。


ごはんに、柔らかく煮たキャベツと鶏肉に、インゲンと厚揚げの薄味煮に、二口三口と口をつけられるのだけど、すぐに箸が止ってしまう。声掛け促すと、また二口三口。また二口三口。その繰り返しがしばらく続き、次第に手が止り、箸をじっと見つめたまま少し戸惑うような表情。箸をかちゃかちゃとは鳴らすけれど、食事へ手が伸びようとはしなかった。確かに食欲が伝わってきていたはずだったのだが、やはり「食欲なし」なのだろうか?食べられないのだろうか?これで今日は限界だろうか?と。


不意に思いつき、スプーンをお借りし口元にごはんを運んでみた。食べる。柔らかく煮たキャベツと鶏肉を運んでみた。食べる。味噌汁のじゃがいもと、味噌汁を交互に口に運んでみた。食べる。インゲンと厚揚げの薄味煮を、またごはんを、お茶を、食べる食べる食べる。食べるのだ!どんどんとはいかないもののゆっくり、でも確かに召し上がっていた。しっかりと口に入れ小気味よく咀嚼し飲み込んでいた。そう、食べていたのだ。


癌が脳に転移され、認知症も併発されていると聞いていたことを思いだす。「食欲なし」ではなかったのだ。食べたくないのでもない。食べられないのでもない。いつもたくさんしっかりというわけにはいかないかもしれないけれど、彼女は食べられる。食べたいのだ。そして事実食べるのだ。手を動かして食べるということ、食べ物を口に運んで食べるという行為を失念していただけなんだ。もしくは休んでいただけなんだ。ひと匙ひと匙。今日からターミナルケアに携わるわたしが、彼女に何が何処まで出来るか分からないけれど、とりあえず、ひと匙ひと匙。食べるということは、食べられたということは、力がつくことだと思う。力になることだと思う。だから、ひと匙ひと匙。

*1:治癒の可能性のない末期患者に対する身体的・心理的・社会的・宗教的側面を包括したケア。延命のための治療よりも,身体的苦痛や死への恐怖をやわらげ,残された人生を充実させることを重視する。終末ケア。