Sweet Sixteen/ケン・ローチ/

makisuke2003-01-05

SWEET SIXTEEN [DVD]
ケン・ローチの新作「Sweet Sixteen」を観に行く。年末の慌ただしさの中、時間をやりくりし映画館へと駆けつけた。


ケン・ローチ。彼の映画「ケス」を観ていたから。この映画がいかに「Sweet」でないか、私は半ば覚悟してはいた。「ケス」には打ちのめされた。突き付けられたのは「どうにもならないことはある」という、動かしがたい現実で。同情や同調は挟み込めない。ただそこにある現実に向かい合うだけ。という厳しさがあるばかりだった。


それは例えば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のように、感動を強いてはこないし、あざとさもない。ハヤブサが飛ぶその姿からは、言葉にならない希望も伝わる。あの場所で暮らしながらも、人は決して飼いならされない。服従しない。そうあって欲しい、そうありたい。と、半ば祈るようにも、私は「ケス」という名のハヤブサとそれを育てる少年を見ながら思っていた。だから安易に泣くでもなく、もちろん「かわいそう」などと言うでもなく。ただただボディーブロウを受けたように、黙り込んでいたのだった。


Sweet Sixteen」は少年たちの話である。英国北部の港町に暮らす、少年リアム。その彼を取り巻く少年たち。家族。大人たち。彼の母親は服役中で、彼の十六歳の誕生日に出所となる。リアムは母親との新しい暮らしを夢見て、ドラックの密売に手を染めていくのだ。


十六歳になる少年。それは、私にはどんなに焦がれても辿り着けなかった場所でもある。


ある年齢にさしかかって、自分という存在に欠けているものは何かを見究める事で、その後の人生は決まってしまう。と言ったのは「矢川澄子」だったけれど。私は少年たちの映画が好きなのだ。その姿をみるだけで、焦がれて切なくなって切羽詰まるのだ。それは、私に持ち得なかった「少年の時間」で。私が辿り着けなかった「男の子の時間」で。だから映画の中の彼らの横顔ばかり追いかけてしまうのだ。


十六歳になる少年は、様々な顔を私に見せてくれた。友達と戯れあう、無防備な顔。家族を養おうとする、大人の顔。ドラッグを奪われ、何度もボコボコにされながら立ち向かっていく、不屈の顔。幼い甥っ子相手にサッカーボールを蹴る、無邪気な顔。裏切り傷ついた親友に対する、切ない顔。姉に叱られる、やんちゃな弟の顔。姉を慰める、大人びた男の顔。母に駆け寄る、嬉しそうに含羞んだ顔。母を求める、切実な顔。そしてラストで見せる、あのやるせない顔。


十六歳になる少年は、大人でもありひどく子供でもあり、アンバランスだ。そのアンバランスさが、彼を追いつめていく時。見ている私が「どうして」「どうして」「どうして」と何度スクリーンに向かって叫ぼうが、彼は立ち止まってはくれない。それは彼が「十六歳の少年」という生き物だからだ。私が成り得なかった生き物だからだ。彼はただ、自分の頭と体だけを頼りに、走れるだけ走っている。無謀で気狂いじみてるその行動が、眩しくて痛々しくて切なくて、私までどうにかなってしまいそうだった。


「ケス」であれ「Sweet Sixteen」であれ、ケン・ローチが思春期と向き合った映画には、やるせない絶望的な結末が用意されている。ラストには言葉を失って打ちのめされる。それでも、それが決して後味の悪さには繋がらないのは。エンドロールの中、様々に表情を変えていく少年たちのあの顔が蘇るから。私はいつだって打ちのめされながら、ケン・ローチが用意してくれなかった、その先のハッピーエンドを夢想するのだ。


それは決して、辛くシビアな彼の映画からの、逃避ではない。彼の映画の中で様々に表情を変え、空を目指して舞い上がろうとする少年たちの、あの確かな顔を見ていたから。彼らに安心出来たんだと、固く固く信じている。