文人暴食/嵐山光三郎

makisuke2003-01-08

文人暴食
文人悪食」を読み終わり、矢も立てもたまらず、続編であるこの「文人暴食」を買い求めに走った私である。文庫になるまで、待ってなどいられないのというわけだ。

作者のあとがきによれば、「文人悪食」「文人暴食」この二冊を書くために十年間(五十歳〜六十歳)を費やしたという。さらっと書いてしまったが、十年である。私はまず、その十年という歳月の重さに絶句した。そして五十歳〜六十歳という、年齢の持つ意味のようなものへも思いを馳せた。そして、しみじみと感じるものがあった。

嵐山光三郎という人は、五十歳をすぎ「人間が食うことの意味」をひたすら考え続けた十年間を送ったということになるのだ。

まずは「悪食」同様、なんとも楽しい時間を送らせてもらった。

南方熊楠」はゲロの達人で、胃の中の食べ物を、自在に吐けたと言う。中学時代のあだ名は「反芻」で、不良消化をおこすことなく、口に戻しては何度も食べ長生きをした。「荒畑寒村」は「獄中料理」をも楽しむ達人で、とにかく出てくるエピソードエピソードが可愛らしい。獄中料理を懐かしみ奥さんに再現させるがうまくいかない。うまくいかないとなると、今度は奥さんに刑務所に入って極意をつかんでこいと言う。甘いものが好物で、顔がむくんで医者と奥さんに止めらる。そうなると奥さんの目を盗んでは、食べようとする。結局は後をつけてきた奥さんに現行犯で捕まってしまう。隠れて食べれば、下痢をおこす。汚れ物を奥さんが洗えば、小豆の皮が出てきてしまい、たちまち悪事は露見してしまうという塩梅だ。「獅子文六」となれば、とにもかくにも食いに食いまくる。彼が食べていないものなど、この世にはないのではなかろうか。美味珍味佳菜、これすべて食いまくる。飲みすぎ食いすぎで胃袋を切り取れば。その一部を見て、冷蔵庫に保存しておいて食いたかったと嘆く始末。人肉嗜食と言えば「金子光晴」で、人肉は刺し身にして酢味噌が良いとうそぶきながら、自分の口中の肉を噛み契っては試食をする。薔薇を貪り食った「宇野浩二」。「宇野千代」「平林たい子」「竹田百合子」「壷井栄」「向田邦子」と、良い仕事をした食い意地の張った女達。飢餓線を彷徨い、うまいうまいと空腹を食った「吉田一穂」彼は月光を酒に移して月光酒を飲んでいた。頭に舌が生えていたのは「里見トン」で。おむすびを持って便所に入り、どっちみち糞になるからと便所に落としてしまったのは「稲垣足穂」だ。その「足穂」の酒も「若山牧水」の酒も「尾崎放哉」の酒も、実に実に切ないのだ。

と、一月あまりの歳月を費やして、この二冊を読み切った。

読み切って、やはりしみじみと感じ入るものがあった。この気持ちは何だろう。ここに出てきた総勢74人の食卓は、食べるというより食うである、食うというより食らうであった。次第に増していく、凄みというか、気迫というか。圧倒された一ヶ月であった。とにかく人が食べるということに魅せられ、呆気にとられ、時にはウンザリし、嫌悪さえ感じながらも、ただただ感じ入る一ヶ月であったのだ。破綻した過剰でいびつな一つ一つの食卓に、時には見たくないモノまで見せられた気持ちにもなりながら、終いにはその食卓の存在がすべて「まことに正しい。かけねなくそう思う」ようになったのだ。

私はとりあえず、これからも食べてゆくのだし、料理していくわけなのだし、そうせねば生きていけぬと思うのだ。至極もっともなことだけれども。その俗を、その性を、その業を、それぞれの形で昇華してくれた74人に、それを丹念に読み解いてくれた嵐山光三郎さんに、私は何だかひどく感動している。のだ。