雲南の豚と人々 謝謝、小朋友(ありがとう、小さな友だち)/伊藤真理(写真・文/JTB/2001年/

と、言うことで思い出しシリーズ。確か、ろくさんからメッセージをはじめてもらったのが、この本でしたっけ。Aは耳の手術で入院中で、心細い毎日の中で届いた、メッセージだったっけ。嬉しかったな。この本は他の方からもちらほらとメッセージをいただき、私の中では「出会いの書」という位置づけとなっております。

雲南の豚と人々 単行本

いつのまにやら「豚の写真家」と呼ばれるようになってしまった。という写真家の本である。「雲南の豚と人々」。まさにそのまま、ヒネリはなし、雲南と豚と人々を記録したただそれだけの本である。

以上でも以下でもない。眉間に縦皺が寄ってない。めそめそとしていない。判断しない。奇をてらわない。上手でない。のびのびしている。そんなところが私を惹き付けたのダロウか?良い本を見つけたなぁと、ヒトリ悦に入ってもみた。

最近では「豚」の性格も見抜く!?ことができるようになり、「豚」とブヒブヒ対話をしながら撮影をしている

と作者は言う。まさにそのコトバどおり。 この本からは、伝わってくるのである。滲み出ているのである、その豚その豚が。抜け目ない奴とか、食えない(食っちゃうんだが)奴とか、媚びへつらう奴とか、我関せずな奴とか。とにかく食われてしまうその日まで、自由気ままに、村中を徘徊している豚たち。風景にすんなりとけ込んでいる豚たち。町に出没し、買い物客よろしくそこを練り歩き、残飯をあさり、時にごろんと寝てしまう豚たち。そこそこに大切にされ、そこそこに関心を払われない、豚たちの写真。

結局、見ているこちらの気持ちが「ふにゃあ」としてくる。「ふにゃあ」とゆるんだ顔になってしまう。隣にいる誰かを捕まえて、ねえ、見て見てと言いたくなってしまう。それほどに可愛らしい豚たち。それでも何処か「ちくちく」としてくる。細かい棘が刺さったまま、ほったらかしているような。時折思い出したように沸いてくる「ちくちく」感。そして、この豚たちが猫だったら犬だったら、と仮定してみる。犬猫だったら、私はこんな「ちくちく」した気持ちにならずにすむのだろうなと、漠然と思う。ただ、目尻を下げて眺めていればいいのだから。

豚は人間に食べられてしまう。こんなに生活に密着した豚たちも、最終的には食べられてしまう。いや、生活に密着していればこそ、食べられてしまうのだ。それは、雲南の人々には至極当たり前のこと。豚を飼い育て、殺して食べる。それが当たり前だからこそ、尊くさえ感じるのだけれど。

「ふにゃあ」感と「ちくちく」感。

それは豚という動物が背負っている、運命のようなモノ。それを伊藤真理という写真家は淡々と撮っているのである。だから、こちらで勝手に様々な感情が生まれてくるのである。

やはり写真には(文章にも)この「淡々」感があって欲しいなと、あるのが好きだなと、私は思う。

豚と同じく、雲南の人々に対しても、彼女は少々のオドロキを混ぜ込みながら、淡々と撮っている。語っている。彼女のスタンスは豚であろうと、人であろうと変わらない。

原色を好み、とにかく派手を良しとするその色彩感覚。プレゼントは値札を張り付けたまま、外国製や高いモノほど喜ぶ、そのあけすけな気性を。歯医者は野外で、道ばたで売られている入れ歯をあてがってピッタリだったら買っていくその、ルーズさを。四つ足はもちろん、動くモノなら何でも料理し食べてしまうそのタフな胃袋を。笑い方がなっていないと言われ、ギャハハハハと大口を開けて笑うやり方を指南されたこと。爆発寸前の車に乗せられていたこと。現地の口内炎の薬を塗ったら、口の周りがムラサキに染まったまま、三日は落ちなくなってしまったこと。などなど。どぎつく、飾らず(時には行き過ぎなほど飾り立てる)、少々荒っぽい雲南の人々。それでも愛さずにはいられない、雲南の人々を。

だから、私はこの本が気に入ったのだ。よい写真だなぁ。よい所だなぁ。よい文章だなぁ。よい豚たちだなぁ。よい人達だなぁ。と。

                 2002-06-16/巻き助