ジョゼと虎と魚たち/田辺聖子/角川文庫/

昨日は一日かけて「ジョゼと虎と魚たち」を読み切った。実は田辺聖子の本を読むのは、これが初めて。映画を観て以来*1、いつか読んでみようと思っていたのだ。


読み始めてすぐ、関西弁の持つ魔力のようなものに引き込まれた。いいなぁ、大阪弁。とっても良いぞ。生き生きしてるし、どこかおかしくって、飄々としてる。どの話にしたって、ここであらすじを聴かされるよりも、大阪弁で語られる物語を読んで行く方が、断然おもろいと思う。そもそも「お茶が熱くてのめません」なんて、タイトルからしてチャーミングで人を食ってて、ステキだと思いませんか?


田辺さんの書き口(目線)は男に対しても女に対しても、同じく優しい。その中でも、ちょっとダメな女の書き方に味がある。もしくはダメな男をダメだと知りつつ慈しんでる女の書き方に味がある。情けない男は「そんなもん」とうけとめて、それでも「可愛い」と思える、女の余裕が嫌みなく書かれている。どの女も男に溺れず、達観してる。達観しつつも、何処か生臭い所に自分の身を置いて、あたふたしている所が大いに気に入った。ちっともスカしてないの。


噂には聞いていたけれど、食べ物の描写もとっても良い。碾茶のお茶漬け、ミートボールのふくめ煮、酢蓮に卵焼き、ご飯には黒胡麻。とっても美味しそうだ。男達は皆、女の料理をとても楽しみにしてる。特別料理上手ではないけれど、相手の味付けに合わせるのが上手いのだと、書いているけれど、その感じスゴク良く分かる。私だってそうだもの、長く暮らした男の好みの味は、何よりも良く知っている。


「うすうす知ってた」の中では。妹の婚約者を意識し過ぎて恥ずかしがったり、はしゃいでしまったりする、夢見る(いけてない)姉が出来たり。「いけどられて」では、再婚相手のもとに旅立つ元夫に、言われるままついつい弁当までこしらえてしまう、女が出てくるのだが。元夫の、子供のままのようなエゴ丸出しに、私まで呆気にとられてしまう(相手に子供が出来たと告白した口で、今夜のごはんは?と聞く辺りや、自分の写真や二人で集めた食器なんかをきっちり持っていってしまう辺り)、それでも何処か憎めないという所もうなずいてしまう。そんな男は懲り懲りだと思いながらも、私だってついつい弁当ぐらい作ってしまうかもしれない。


そして、映画にもなった「ジョゼと虎と魚たち」なのだけれど。映画を先に観てしまった私としては、この短編集を読みながらも、池脇千鶴のジョゼと妻夫木聡の恒夫が動いてしまっていて、くるりの音楽*2が鳴っているから、もうどうしようもない。映画が良いとか原作が良いとか、すでに考えられなくなっている。それでも、映画版には「これから」「生きてく」といった匂いが濃厚だったのに対して、田辺聖子の原作の方は「死んだモン」の匂いがする。そこがいい。海底で一生光に当たらず生きていく深海魚の心意気を感じる。確実にやって来るだろう不幸と、それに揺るぐことのない幸せを感じる。映画版のジョゼは一度だけでも、光を求めて、その光を永遠に自分のものにしたけれど、田辺版のジョゼは一筋の光さえも求めない。その息苦しいようなうっとりするような怖いような世界に、私は酔った。

恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同意語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。
(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になったー)

私は、私の幸福を思い出したような気がした。