青い春/松本大洋(原作)豊田利晃(監督・脚本)/2002年

「青い春」を観たときから「新井浩文」という役者に惚れてしまって、「赤目四十八瀧心中未遂」でも「ジョゼと虎と魚たち」でも(登場時間は少ないけど)印象に残る芝居をしてたの。「ラブドガン」「血と骨」と、新作の公開も続々控えていて、楽しみ。芸能ニュースによれば、池脇千鶴との交際が発覚したとか、「ジョゼ〜」の遣り取りを思い出し、なんだか良いカップルが誕生したものだと。ニヤニヤ。「青い春」のreviewがあったので載せておきます。


ー頭の中では、まだチバユウスケの、あの、がなり立てるような、すすり泣くような、追い立てられるような声が鳴り響いているー

びっくりした。映画「青い春」は、こんなにも原作から遠いのに、こんなにも松本大洋の世界に近いなんて。って、分かった風な口を利いてみたんだけれど、実は原作の「青い春」をよく憶えていなくって、家に帰って読み返してみた。「青い春」は、異質のモノ毛色の違うモノ温度が違うモノと、理解していて、若書きのその作品は、たいして惹かれていなかった。 だから、また、びっくりした。ああ、これは監督の意訳だったんだって分かったから。それで、その意訳が、私にはちっともヤじゃなかった。ヤじゃなかったなんて、なまっちょろい言い方しちゃったけれど、グッときた。そう、グッと。

だって、これは、松本大洋の「あの世界」を、限りなく愛した人達だけに作れる映画だって分かったから。すべてを噛み砕いて消化して私の前に吐き出してくれた、そんな映画だから。だから、ヒトツになったような気がした。この映画でもって、私の中の松本大洋の作品が、はじめて手を繋いだ。ヒトツになった。すべてが手を取り合って、まあるい円になった。そんな気がした。

シロがいてクロがいる、ただそれだけ(鉄コン筋クリート)。スマイルが呼んでペコが答える、ただそれだけ(ピンポン)。自給自足の人、花男がいるってこと(花男)。強すぎる男ゴシマ。その孤独(ZERO)。ユキがマコトを見つけて、マコトがユキを見つけてくれる(GOGOモンスター)。そして、九條と青木(青い春)。九條に焦がれる青木と、耳を塞ぎ、内なる静かさを求める九條。その限りなく埋められない、人間の質の差みたいなモノ。

ここではない何処かへ、ここではない何処かへ、誰もがいろんなカタチで飛び立とうとしている。何かに焦がれ、誰かに焦がれ、それぞれの静かさと頂点を目指して、飛び立とうとしている。その一瞬だ。それが、何だかこの映画を観ながら、ぱっと、視界が開けたみたいに、見えてきた。

ヒリヒリする感じ。喉がカラカラになる感じ。この映画から感じる、強い「今」。昨日でも明日でもなく、ただデジタルが時を刻むような「今」を重ねるこの感じ。その危うさ。その痛さ。誰もがじれてて、誰もが狂ってる。何もかもがねじれてて、アンバランスな永遠の「青すぎる春」。

「今日は帰ります」そう言い残して、九條が校門に向かう。私には、九條の松田龍平という人に、帰る場所があるのだろうかと。遠ざかる背中を見送りながら、そう思った。彼はここに生きるしかない。パラダイスという名の学校を出て、彼は何処へ帰っていくのか。この人の帰る先が見えなかった。きっとこの、異質な存在感を持つ彼は、帰る場所なんてない。何処にもないんだ。

それを見送る青木。青木を演じた「新井浩文」がいい、生臭くて脆くて弱くて強い男を身の丈で見せてくれる。青木には、きちんと先が見える。家庭やこれまでやこれからが見えてくる。そういう、一時を越えれば、至極健全にマイニチを紡いでいけるダロウ青木が、九條のトコロまで行くことを選ぶ。

九條、オマエのトコロまで連れてってくれよ

その、皮肉なまでのすれ違い。その、押さえられない恋情のようなモノ。それが痛いよ。 「青い春」には、明日も昨日も今日もない。永遠に「今」を表示し続ける、出口のない世界があるだけ。ねえ、私もそこに連れてってよ。と、今でもグッとき続けている。

                      2002-08-22/巻き助