味覚日乗/辰巳芳子

昨夜は「日々ごはん(1)」を読みながら「きちんとごはん」をしていないと、反省した私。今日は更に辰巳芳子先生の本を手に取って、自分を戒める(もしくは自虐的な気分を高める)日となりました。

味覚日乗 (ちくま文庫)
たかが、毎日のご飯と言うなかれ。大正13年生まれの、辰巳浜子先生の本の数々は(もう勝手に先生と呼ばせてもらいますが)読み手のこちらの気合いもなければ、たちまち自分の不甲斐なさ、ざんきさ加減に、しっぽを巻いて逃げ出してしまいたくなる。そんな本です。

もう、耳が痛いなんてモンじゃない。何も知らない連れ合いをつかまえて、申し訳ない。私はなんと毎日ぼんやりとご飯を作っていたことでしょう。なんと愛情に欠けていたことでしょう。と、謝らずにはいられなくなる。そんな本です。

それでも、何度叱られても叱られても、季節の変わり目には、先生の本を手に取る。手に取ると決めたその日は、何でも教わろう、教えてもらおう、そんな真摯な気持ちになれる日。やって来る春を夏を秋を冬を、少しでも早く感じたい日。そんな力が満ちている日だ。

「手しおにかけた私の料理」「家庭料理の姿」「辰巳芳子の旬を味わう」「ことことふっくら豆料理」「手づくり保存食」どれも皆先生の本である。さらに、先生の明治生まれのお母様が書かれた「料理歳時記」辰巳浜子--なんてモノまであるのだから。ヒトツと言わず、どれも読んで欲しい。どれも読み落としてはいけないような本である。

その中で、くり返しくり返し、説かれていることは、無神経を防ぎなさいということ。手間を惜しまず、気持ちを込めなさいということ。季節や行事を食べ物に盛り込みなさいということ。味云々、手際云々を言うのではなく、そこに向き合おうとするあなたの気持ちをしゃんとしなさいと言うのである。だから、私は何も言えなくなってしまうのだ。ただただその教えを深く感じて、新たな気持ちで包丁を握るしかない。

そして、つくづく思う。「主婦」というのは、なんと背筋の伸びた素敵な仕事だろうかと。料理し、日々を養っていくのは、なんと手間と気持ちのこもった仕事だろうかと。

細かなことに目を配り、気を配り。ただ作り続けるということ。自分の役割をただ果たすということ。家族のためにただ仕えるということ。自分という厄介なものを封じ込めて。そんな何百年と繰り返されていた営みを、名も無い人たちが繰り返してきた営みを、私はココロから尊いと感じているのだ。そしてその姿の中に、自分に対するたくさんの答えが用意されているような気がしてならないのだ。

目を閉じて、深く感じてみようよ。
自分のニオイにうんざりする前に。
役割の前にただ忠実である。
そんなモノや人や動物はわけもなく美しいから。
 

むし暑い日本の夏は、「味をひきたてる」類に入る温度に関わること、特に『冷やし加減』、加えて冷たさ、涼やかさをいかす上での「熱さ」を献立にどのように配るかが思案のしどころでもあり、演出の愉快さでもあります。・・・私が手本にしている、湯茶、野菜、果物の冷やし加減は「朝露」です。露にぬれた、トマトや胡瓜。味も香りも、一夜かけたひんやりで、口にもお腹にも、言うに言われぬ頃合いです。むずかしい基準かもしれませんが、願いは、無神経を防ぐこと、朝露を念頭に置いています。

さて、梅雨もあけぬというのに、今年の夏はやって来てしまったようだ。毎日毎日蒸し暑くってたまらない。疲れて帰ってくる連れあいに、今夜は何を出そうか。出せるだろうか。塩を効かせた熱々の枝豆と、ひんやりと冷えたビール。その後はどうしよう。どうすればいいかな。それからが私の思案のしどころなのだ。

「酒のつまみは才覚でお作り」そんな先生の声が聞こえてくる。なけなしの才覚で、大切な人が帰ってくるまでに、私は何が出来るだろうか。
 
                     2001-07-09/巻き助