サマリア/キム・ギドク@恵比寿ガーデンシネマ


(展開や結末に思いっきり触れちゃってると思います、ご了承を)恵比寿ガーデンシネマで「サマリア」を見ました。韓国映画は積極的に見ないけれど、この監督は別。冒頭、チェヨンとヨジンのシーンでは角田光代著「対岸の彼女」の葵とナナコとダブってしまう。この監督の、不親切さが良いなと思う。見終わって家に帰って私の胸に残っているのは、キレギレのストーリーと美しすぎる幾つかの映像と音。それだけで、後から後から気持ちが沸き上がって収まらない。

チェヨンがどんな暮らしをしていたのか、どんな女の子だったのか、私たちには分からない。想像するしかない。ただ、まるで聖母を思わせるような、笑みを浮かべているだけ。その微笑みだけが私の脳裏に張り付いてはがれない。チェヨンを知るために、チェヨンと重なるために、彼女の歩いた道を歩く事を選らんんでしまうヨジン。その姿はどんどんチェヨンに近づいていく。もしかすると、彼女を追う事ではじめて彼女に辿り着けたのかもしれない。チェヨンがそこに何を見ていたのか、知ったのかもしれない。ヨジンの行動を知って、破滅的になっていくヨジンのパパ。誰の選択も愚かで痛い。痛くて切ない。切なくてやり切れない。それでもその行動のあまりに個人的な様に私はただひたすら胸を打たれる。世の中とか世間とか、ここには、この映画にはない。愛するものとそれを守りたいと願うものだけの狭く深い世界があるだけ。その息が詰まるような閉塞感と開放感に私はしばし気を失う。

この映画に流れる水が忘れられない。まるで穢れを落とすかのように、互いを洗いあうシャワールーム(公衆浴場?)のシーン、ヨジンが手のひらですくう水、車が分け入っていく水、ヨジンのパパの悲しみを洗い流す水、水、水。「この痛みを抱いて生きる」こと。追っても追っても届かないもの。誰もがヒトリで立ち向かっていかなくっちゃいけない事。本当に美しいものと。本当のシアワセと。失ったものと。なくして見えてきたものとか。そんなことを考えていたら、なんだか、ここが何処で私が誰か分からなくなった。