走れメルス〜少女の唇からはダイナマイト!〜/NODA・MAP@WOWOW

昨夜は遅くまで野田秀樹の「走れメルス」をみた。私には懐かしい感覚、Aさんには新しい感覚。少しも古さを感じない。コトバ遊びの応酬の中から、頂点に向かってコトバも役者達も、ぎゅっーとヒトツに集約していくあの疾走感は、いつ見てもたまらない。野田秀樹という人は、誰とも何とも替わりの効かない、ワン・アンド・オンリーの天才なんだと改めて思う。意味削ぎ落としたコトバは「音(ON)」だけが立ち上がってきて。役者達のエゴや人格はどんどん抜け落ちていって、気が付けば剥き出しの魂だけが浮かび上がってくるみたいだ。コトバの洪水と役者の汗の乱反射。眩しいぐらいの、舞台という空間。見ている自分は、ただの入れ物みたいになって、その洪水を一身に受けとめるだけ。空っぽみたいな気分になってくる。

Aさんははその熱気にすっかり参ってしまったみたいだけど、私はと言えば、あの頃の事を思い出してた。あの頃。某福祉大学をまんまと中退をして、劇団を旗揚げして、芝居に取り憑かれていたあの頃の事を。バイトをしてお金を稼ぐという事も、誰かとトモダチになるという事も、何かを見聞きし感じるという事も、すべてが「芝居をする」という大前提の元に行われていたあの頃の事。早いセリフをもっと早く、大きく激しく吐き出していると、自分がセリフを吐き出すマシーンみたいに思えてきて、いくらでも早く大きく激しく出来たし、そんな時の自分はとても自由で有能で正しいと信じられる事が出来たっけ。

夢の中にいるみたいだったけど、何かを産みだす現場はキレイなだけじゃない、むしろキタナク苦しくうっとうしいかもしれない。他人を巻き込むし、自分を含む誰かを攻撃してしまう事もある。それでも何かを産み出すってあの感覚を知ってしまった人は、きっと忘れられない。何かを発信して、それに感応する誰かがいるって感覚を身に付けてしまった人間は、その感覚を忘れられない。中毒症状。禁断症状。そして、近親憎悪。嫉妬と後悔。諦観と焦燥。あの頃の事も今の気持ちも、上手くは語れない。もちろん、未来永劫説明なんかはするつもりもないし、したくもない。思い出話になんかはしたくはないし、済んだ事にしてしまうには、辛すぎる。私はあれから随分時間が経つけど、まだ芝居をまっすぐに見る事が出来ないのだし。