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鈴木いづみコレクション〈5〉 エッセイ集(1) いつだってティータイム
例えば「鈴木いづみ」のように「自殺」という手段で世の中と折り合いをつけた人たちを「彼らはどこで間違えたのか」などと解釈する他人を、私はほとんど憎んでいるといっていい。

速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっている


この本は「鈴木いづみ」によって書かれた、映画にまつわるエッセイ集である。この中で彼女は、宿命のライバルでもあり、一時期は確かに自分の宗教でもあった、元夫「阿部薫」が死んだ日のことも書いている。


私はこの本で彼女の文章と出会ったのだ。


それまでは外堀を埋めるみたいに、誰それの語る彼女を読むこと見ることから、私のいづみ体験は始まっていた。彼女の文章に直に触れて、彼女の印象が鮮やかに変わっていくのを感じた。「いづみ」とはひどく乾いていて、ウイットに飛んでいて、実に真面目だった。私はその語り口の面白さにまずは飛びついた。


私は嬉しかったのだ。彼女は生きていようと死んでいようと変わらない。彼女の文章が今ここにあり、付加価値何ぞなくともヒトリの書き手として充分すぎるほどに面白いということに。彼女は時にエキセントリックに語られる。物語として語られやすい人なのだ。 その言葉は挑発的かもしれない。


だけどきっと、そんなことは彼女の中ではどうでも良かったのだ。このエッセイだって、読み飛ばされ忘れ去られていくことを彼女は至極当たり前と受け取っていた。彼女はすべてを受け入れている。

私は誰の助けも借りずに、私自身の「孤独」を充実させる以外に、手はないのだ。私は犬みたいにがんばらなければならない


彼女は言う、薫の残したビデオをみて「自分が死んでも、そんなものはのこりっこないとおもい、そのうえだれも悲しみやしないのだと直感した」と。そう、彼女は絶望している。実にあっけらかんと。だから彼女の絶望は私にはひりひりと痛いのだ。その皮膚の下の痛みが伝わるのだ。まるでその体、剥き出しみたいじゃないかと。

おねがいです。どなたか、わたしをわかってください。わかってくだされば、それだけで幸福になれます


彼女は死んでしまった薫のことを、あくまでも美しく書こうとしない。死んで思い出すのは、イヤなことばっかりとも答えている。彼女は執拗なまでに「過去を美化すまい」と心に誓っている。私は彼女のこの行為を切実に理解する。彼女のこの過剰を思う時、私は彼女を抱きしめてあげたくなる。

彼女は言う、プライドなど、取るに足らないものだと断りながらも、「わたしはなにも持たず、あるいは持っていたとしてもすでにうしなわれてしまっていて(いつでも!)ボロボロになった自我が最後にしがみつくのはプライドだけなのだ」と。彼女は死んでしまった薫とも戦ってる。何も持たず、すべてを失って戦ってる。勝ち目のない戦いだけれども。彼女の武器はヒトツ「過去を美化すまい」なのだから。私は彼女の戦いを支持したい。人はどんなに他人から奇異に見えようが、死んでしまうその日まで、何とか自分で自分を抱きしめ続けていかなくてはならないのだから。

忘却してはいけない。決して。それがどれほどつらくても。でないと、もう歩けない。……遠すぎて。


彼女は愛するディーンについてこんなことも書いている「他人たちは「彼は狂っている」とか「おかしい」とかいった。そうせずにはいられなかった内部までおりていった人物はいなかったようだ。男でも女でも、彼に徹底的につきあえば、ディーンは最後にはすくわれたかもしれないのに」


私はこの文章を読む度に「ディーン」を「いづみ」に置き換えてしまう。そして言葉が見つからなくなる。