やわらかい手


ーもうずうっと前のことだけれど、新宿でリバイバル上映をしていた「あの胸にもう一度」をみたことがあったっけ。あの時のマリアンヌ・フェイスフル。黒のレザースーツにするりと裸体を滑り込ませた彼女。映画自体はすぐに忘れてしまったけど、彼女の存在は記憶に残った。(誰かが言ってた)ミューズって言葉が相応しく似合ってた。魅力的と言おうか、かわいかった。ソコでしか生きられないような儚さがあったのだー


その、マリアンヌ・フェイスフルの38年ぶりの主演作。「やわらかい手」をみる。Bunkamuraル・シネマ。気合いを入れて早めに出掛けていったけど、ちょっと拍子抜けしてしまうぐらいの非混雑ぶりだった。けど、すごくすごくよかった。


確かに、彼女は類い稀なる「やわらかい手」を持っていたのかもしれないけれどー。だけど、彼女が「ラッキー・ホール」の風俗店で人々に愛されたのは、ソレだけじゃなかった。ってトコロが素敵だった。彼女は瀕死の孫やそれを見守る家族たちへの「愛」に突き動かされて、言わばプライドのようなモノをかなぐり捨てて、ソコに辿り着くのだけど。彼女らしい(もしくは、中年のありきたりの主婦らしい)生命力もしくは生活力のようなモノで、「ラッキー・ホール」という場所でさえ、居心地のいい場所に育てていく。そこのトコロが、素敵だった。エプロンをつけ、水筒を持ち、自分で選んだローションを使い、友を見つけ、絵を飾り、心惹かれる男を見つけ出す。そうやってソコで根を張る姿が、いかにも様になっていた。彼女はきっとどんな場所でも、ソコを味方につけられるのだ。


長い年月家族のために炊事をし、子供たちの頬を撫でてきた、そのやわらかい手は、見た目には美しいとは言いがたいけれど、触るものすべてを慈しまずにはいられない力を持っているのだなと思う。彼女にかかったらちっとも特別なんかじゃない。だから「テニス肘」ならぬ「ペニス肘」になる程の過酷な仕事も、いつの間にやら彼女の側に味方してくれるんだ。


私は気が付いたら彼女の「手」ばかりを目で追ってしまってた。その手に触れて、撫でて欲しいという気持ちが、いつの間にかむくむくと沸き起こってた。それは映画の中の男もおんなじなんだろーなと思った。彼女は圧倒的に豊かなんだ。


くすくすと笑いたくなる気持ちもたくさん起こるんだけど、彼女の一途な瞳を見てると。できなくなった。私もただじっと、小さな穴から外をうかがってた彼女のように瞳を凝らしてしまう。じっと見てしまってた。見ていると、彼女はどんどん魅力的と言おうか、可愛くなった。掛け値なしに彼女は可愛かった。変わらずに女神だった。ミューズだった。女だった。


賢い女というモノは、愛なくしては跳べないけれど。賢い女というモノは、愛なくしては根は張れない。愛なくしては働けないし。愛なくしては強くなれない。のだねえ。なあんて思いながら師走の渋谷の街を後にして、家路を急いだ。私でありました。ああああっつ、いー映画をみたなー。誰に教えようかなーっていう。しあわせな気持ちいっぱいで。