今夜みたテレビ

  
今夜放送していた、清志郎の番組をみる。みたとおもったら、もう終わってしまって。それはあまりにあっけなくって。余計に強く濃く、わたしにさよならを突き付けたような、強要されたような時間だった。


たぶん、どんな時間を費やしたって、足りない。足りることなんて、ないんだとおもう。見ても、見ても、見足りるってことがない。なにをどうすれば、わたしが足りて、そして納得するのかなんて、わからない。それがお別れで、さよならだってこと。今夜、こんな形で知ってしまった。


さらならに満足の形なんてないんだってこと。


もっともっともっと、あの声を聞く機会だってあったんだよなと。今更ながらの後悔は、ただの後悔で、もうどこにも辿り着けない後悔だ。ただ、その、どこか突き抜けたような。どこかあっけらかんと明るいような。センチメンタルな物語を拒むかのようなその声は、やはりわたしを安心させて。納得させてくれるんだ。清志郎の声は、歌は、いつだって粒子単位でわたしに届く。せつせつせつと届いてくるその歌声は、一度意味合いが分解されて、わたしの耳にざらざらと流れ落ちて、そしてまた作られる。作られた歌は、誰のものでもない、わたしの歌だ。


キヨシローの歌は、わたしといろんな人をつないでくれた。わたしと誰かの関係を確かなものにしてくれた。わたしに忘れられない誰かを作って。歌と一緒に寄り添う誰かを強く感じさせてくれたんだ。だから、すごく人が恋しくなる。人という存在が、そこにある体温が、色が、音が、匂いが、恋しくなる。恋しくなって、取り戻したくなる。


今、いろんな断片の記憶がわたしの中に溢れ出していて、少し苦しい。苦しくて苦しくて、全然まとまらないけど、まとまらないまま。今夜は寝ます。