死に顔を見、手をあわせてくることは、仕事をするということの中で、いつもヒトツの区切りになる。

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いつかの夏のこと。


同僚という名のおばちゃんと、ずっと担当してきた利用者さんのお通夜に出掛けた。死に顔を見、手をあわせてくることは、仕事をするということの中で、いつもヒトツの区切りになる。今夜もそのヒトツの区切りとやらをつけるため、善福寺川沿いにある小さな葬儀場に出掛けた。 亡くなったのは、103歳になるお婆さん。大往生だあっつ。幸せな一生だったよねぇ。あやかりたいよぉ。と、誰からともなく感心とも羨望とも感嘆ともとれる声が漏れ聞こえてくる。すすりあげるような気配も時々届いてくるけれど、圧倒的に賑やかで温かい微笑ましいお通夜だった。



死に顔は、本当に奇麗だったーこんなに鼻が高かったんだあ。こんなに彫りが深い人だっけ?いかにもさっぱりとした輪郭だったんだなあ。肌もこんなにキレイでー生きている時には見過ごしていたあれこれに、しばし時を忘れて見蕩れてしまった。生々しいものをを脱ぎ捨てたような、清々とした顔。生きることを手放して手に入れたような美しさ。 最後にと、そうっと触れたら、ひんやりとしていて心地よくしっとりと潤っているようにも感じられて。私もいつか、こんなしっとりとした冷たさを手に入れられる日がくるのかなあとぼんやりと思った。


そうだ、私はいつもこのおばあさんを羨ましいなあと思っていたんだ。百歳を過ぎて、人生の大概のことをやり尽くして、終わりに向かってゆっくりと漂っているような彼女の毎日を。不謹慎承知で羨ましいなあと思っていたのだ。息子さんの死も、世の中の悲しいニュースも、誰かの話す配慮に欠けた言葉も、彼女の毎日を脅かすことは、もうなかった。ただただゆったりとゆっくりと終わりに向かって流れているようだった。美味しいものを口にすると口元が緩んでにいっーとなった。体を拭いてあげると、気持ちがいいのか目がさらに細まった。立ち上がる時は一緒になって「どっこいしょ」と言っていた。虫眼鏡を使ってチラシや会報を読むのが好きだった。時々は新しい服でおしゃれして出掛けたいとタダをこねた。そんな姿が川に重なった。海に向かってどんどん広がって、広がりながら自身も穏やかにおおらかになっていく川。彼女は今日、海に注ぎ込んだのかもしれないねえ。なんて誰にいうでもなくヒトリ思った。



お通夜からの帰り道、同僚という名のおばちゃんが「ここのスーパーね、この時間になると値引きが始まンのよ、安くなるからさあ、買ってこうよぉ」というので、買い物カゴを振りかざして半額商品に群がる人々に混じってみた。メカブとタラコとサクのまんまのお刺身を確保した私は、ちょっと得意気だったかもしれない。メカブとタラコとお刺し身が食べたかったのかは分からないけど。とにかく、負けないように果敢に挑んだ。戦利品の入ったカゴを「ほらっ」と見せて、おばちゃんに「ヨシヨシヨクヤッタヨクヤッタエライエライ」と無性に褒めてもらいたかっただけなのかもしれないけど。


帰り道、昼間の暑さが嘘みたいで、涼しい風がすいっーと吹いた。「いい夜だなぁ」おばちゃんと別れた私の口からは、そんな言葉がぽろっとこぼれた。口に出したら、もっともっといい夜になったような気持ちになって、自転車のペダルをぐいんと漕いだ。帰ったら、メカブとタラコとサクのまんまのお刺身を食べるんだあと、ぐいんぐいんペダルを漕いでねこたちの待ってる部屋を目指した。