私はお仕事だったのだけど、お休みだったAが掃除機をかけておいてくれました。布団もふかふかに干し上がっていて、よい気分。ありがとうありがとう。夕ごはんは、牛のほほ肉のシチュー。後は各種パン(チーズフランスやポテトの入ったフランスパンやプレーンマフィンなどを少しずつ)煮込みに煮込んだほほ肉はスプーンでも切れる柔らかさ。牛肉を食べているというよりも、コンビーフを食べているみたいというのは、ホメ言葉なのだろうか?とにかくとろとろの牛肉というのは、美味いものですね。

散歩のとき何か食べたくなって/池波正太郎

東京に暮らして、わたしははじめて散歩というモノを知った。

フルサトには散歩というモノがなかった。だから今でも少し散歩は苦手かもしれない。歩くということは、いつも目的があった。畑に行く田んぼに行く誰かの家まで訪ねて行く。ぶらぶら歩いていればあの小さな村では、かなり人目を引いただろうし、だいたい大人も子供も年寄りもそんな人は見かけなかった。どんなに腰が曲がった年寄りだって、畑に行く田んぼに行く誰かの家まで訪ねて行く。そうやって目的地に向かって移動していった。それが常だった。だから景色だって言うほど眺めちゃいなかった。

ーわたしが立ち止まって顔を上げて、すべてをぐるりと見渡したのは、それからずっと後の話。見渡して、そしていろんな事に気付いたのは、それからまた少し後の話。なくしてはじめて人はいろんな事に気付くというのは、いつものことで。これはまた別の話で。それについては、またいつか話そうー

もしも散歩のとき何か食べたくなったら…わたしならコロッケ。肉屋のコロッケ。でも肉なんて探すかんじのがいい。揚げたてよりも少し冷めたくらいの。もしくは団子。みたらしのあまじょっぱいたれがたっぷしかかってるヤツ。さもなくば甘栗。天津甘栗の千円の袋。じっと見つめるとおじちゃんが一つ二つおまけしてくれるような店で。そしてやっぱり袋を受け取ったら、それがほんのりでも温かくなくっちゃいけない。歩きながら、ぷちんぷちんと爪を入れる。隣で話す人の話もそこそこに、ぷちんぷちんと爪を入れて。最後は総菜パン。コッペパンに挟まれているのは、コロッケよし卵よし焼きそばよしジャムバターよし。もうね、それを幾つになっても歩きながら食べる。「歩きながら食べるのなんか犬だってやりませんよ」って言ったのは東海林さだおだったように思うけど。犬以下で結構。買うなり食べる。人気のない小道で食べる。できれば二人で食べる。

全く、それはそれで楽しいのだけど、わたしはちっとも散歩上手にはなれそうにない。ついつい買い物やら本屋やら休憩地点やら目的地を作ってしまって。帰り道には、なにがしの戦利品を抱えたくなって。これじゃあ格好が良くない。行く先も決めず当てもなく、ただぶらぶら。ぶらぶらぶらぶら。そんな風に、知ってる街も知らない街みたいに歩いてみたいと思ってはいる。そして、散歩の途中でお腹が減って、ふらっとなじみの店やらなじまない店やらに入れたら…わたしは本当の散歩上手になれるのに、と、いつも思うのだけど。

「散歩のとき何か食べたくなって*1」粋なタイトル。粋な本。散歩上手とはこの人をおいて他にない。何てったって格好が良い。銀座から始まって、京都や信州、フランスまでぶらぶらぶらぶら。そして、小腹が空いたらふらっと店を訪ねて、土地土地の美味い物を気取らず食べる。この本にはそんな池波さんが訪ねた店の名が惜しげもなく載っている。今も残っている店は、住所や電話番号までと、さながらグルメマップのようでもある。

しかし、決してそうではない。そういう本にはなり得ない。池波正太郎が食べ物について語るとき、懐かしさや愛おしさや寂しさや憧れやすべてが詰まっているから。その上でさらっと、あの店のあの味がいいよと、こともなげに飾りもせずに言うから。だからわたしは眺めるしかない。その完成された風景を、池波さんごと。だから、この本を何度読み返そうと、あの店にどんなに憧れようと、わたしは店を訪れることはないと思う。おそらくきっと。

それは池波さんがいまなお住む、すべて懐かしい情景だから。
 

*1:

散歩のとき何か食べたくなって (新潮文庫)

散歩のとき何か食べたくなって (新潮文庫)

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