神々の山嶺/夢枕獏

神々の山嶺(いただき)〈上〉 神々の山嶺 下 (集英社文庫)

友達が山で死んだ。

暮れようとする年の慌ただしさに、街も人も包まれ始めた頃だった。取るモノもとりあえず、彼女のもとへと駆けつけた。

そこには本当に変わり果てた彼女の姿があった。黒ずんだ赤紫の顔。食いしばった歯。めくれた唇。ほっこりした笑顔の彼女とは別人のような、初めて目にする壮絶な彼女の顔だった。凍死。誰もが疑った滑落ではなく、頂上を目指し確かにそこに辿り着き力尽きたのだ。

彼女と山に登ったことがあった。あの時のことは今でも時々思い出す。

ダラダラと続く細い道。時折、沢から吹き上げる鮮烈な風。現れてはなかなか近づけてはくれない、天辺。ただただ、用意された上り坂。言葉も出ず、なりふりも構えず、上へ上へと足を繰り出す他にしょうがなかった。突然、訳の分からぬ笑いが込み上げてきた。腹の底から。抑えきれない気持ちが腹のもっと底の、踏みしめる地面のもっと底の方から、込み上げてくるようだった。

それが唯一私の知っている山だった。

彼女が山で死んだとき、あの時の山を思い出した。幾分かでも、自分は彼女の気持ちが分かったような気がしていた。「なぜ、彼女が山に?」おっとりした彼女と山が結びつかずに、そう尋ねる人たちに、私ならば答えられると、躍起になる私がいた。

生前彼女が私に奨めてくれた「神々の山嶺」を読んだ。幾分かでも彼女の山への手がかりが欲しかったのも本当だ。

そこには、私の知らない「ひりひりする山」があった。「取り憑かれた山屋」がいた。その息苦しいまでの世界に、私はすっかり夢中になった。
 
世の中と上手く関われない男。人のことも自分のことも信用できないず、運命さえ敵に回す男「羽生」。私はこの男に、迂闊にも同情をしてしまった。世の中と折り合いのつかぬ人を目の当たりにするのは、辛く切ない。目を背けたくなる。のに目が逸らせない。彼の生き様は、彼の山と同じく「ひりひり」している。息が苦しくなる。彼が山を求めれば人は彼から去っていく。求めれば求めるほど去っていく。

しかし、その同情があまりに小さく、安易であることに私は気がついた。彼の山は、世の中から背を向けることではないのだ。人を遠ざけるためのモノでもないのだ。彼には、山しかないのだ。いや、山が彼にはあったのだ。

エヴェレストの寒さが想像がつくと言ったら、ウソになる。高度八千メートルの空気が感じられるか。ただ休んでいるだけで失われていく体力が。滑落の痛みが。壁に張り付いて凌ぐ風の強さが。眠れずに過ごすテントでの夜が。自分を取り巻く、幻覚や幻聴が。だが、私のカラダはコチコチになり、息があがった。手が震え、喉が渇いてゼイゼイいった。それでも本を休めなかった。彼女の最期がたどれるだろうか。そんな想いも途中で消えた。ひたすらに登っているのは、いつのまにやら私だった。

私の知らなかった「ひりひりする山」。それは彼女も知らなかったのかもしれない。知っていたのかもしれない。それさえも今となっては知る由もない。 それでも時々くれる手紙の中で、彼女はいつも山を、上を、目指していた。登らなくてはと、自分を追い込むように言っていた。羽生の持つ焦がれるような気持ちを、彼女も確かに持っていた。彼女は山を持っていた。それを背中にしょって人と関わり、交じっていた。どんな時でも。

「山を甘く見るやつはいない」「死なないためだったらなんだってする」そんな言葉を確認しては、熱くなった。そうだ。彼女は、最期まで生きるため登っていったのだ。ただ上だけを目指して登っていたのだ。彼女は最後まで生きるために登っていたのだ。