文人悪食/嵐山光三郎

文人悪食 (新潮文庫)
我が父親は文人ではないが、立派な悪食だと思う。

なんてったって「牛乳茶漬け」を食べていた。鴎外は「饅頭茶漬け」を好んだそうだが、その方が幾分かでも美味そうである。我が父親は炊き立てのほかほかのご飯に、隣の家からいただいてくる搾りたての濃厚な牛乳をあっためてかける。それをざくざくとかき込むのだ。米も牛乳も良いものだ。それぞれは美味しそうではあるのだが、ぶち壊しな組み合わせだ。と、娘たちはみんなして思っている。もちろん薦められるが、試したこともない。美味しいのだろうか?

さてさて、私事のそんなお話はさておいて、この数日間、なんと楽しい時間を過ごさせていただいたことだろうか。それもこれも、この本「文人悪食」のおかげなのである。この本には文士たちの「一筋縄ではいかない食卓」が37人分登場するのである。「なにを飲み食いしたかで見えてくるもの」を37人分探っていくのである。

なんと読みごたえのあることか。それは、そうそうたる37人を見ただけでも、巻末に並べられている参考文献の量からでも、簡単に納得してしまうのだが。この読みごたえは、何もそれらばかりではないことに気がついた。正直こんなに「嵐山光三郎」という人が読ませる人だとは知らなかった。

「文士の食事には、みな物語があり、それは作品と微妙な温度感で結びついている」と、嵐山さんは書いている。食べるにこだわる人あり(もちろん一筋縄ではいかないわけだが)。作るにこだわる人あり(料理は人を慰安する。と、書いてある)。店にこだわる人あり。もちろんこだわりにもいろいろあり。こだわらぬと見せる人にも何かしらの物語が潜んでおり、そこのところも通り一遍でなく、丹念に丹念に読み取っていってくれるのだ。人は食べねば生きてはいけぬと。そこのところの性めいた、悲しさだったり気迫だったり喜びだったり憂鬱だったりを、見逃すことなくすくい取ってくれるのだ。それは全く違う角度から、作品にその人に触れ直すということで。例えばどんな深刻な物語であれ、ついつい食べるものにばかり目がいってしまう私と言う人間にとっても、大変嬉しい作業なのであった。そして、ついつい食べ物へ食べ物へと目がいってしまう私という人間に潜む性までも、しばし考えさせてくれるものだった。

37人、誰をとっても面白く新鮮な驚きがあるが。特に詩人歌人の食卓の面白さは、際立っている。斎藤茂吉の「もの食う歌人種田山頭火の「弁当乞食」高村光太郎の「咽喉に嵐」萩原朔太郎「雲雀料理」。

そして、なんと言っても私を圧倒したのが、正岡子規の「自分を攻撃する食欲」だった。「子規は死の床にあって、蒲団の外に足をのばせない苦痛のなかで食っては吐き、歯ぐきの膿を出してはまた食い、便を山のように出した。食えば腹が痛んで苦悶し、麻痺剤を使って苦痛に耐え、「餓鬼」として自分の正体を見定めるように貪り食った。」のだ。その気迫に満ちた姿から「生きることはどういうことか、食うとはどういう意味かをつきつけられる。」のだ。

と、恥ずかしながら、この本の魅力を伝えようとすればするほど、引用ばかりになってしまう。何か言葉で言い直すのが本当に難しいのだ。

しかし坪内佑三さんの解説を読んで、少しだけ安心もした。彼は書いている。「(この本を前にして)どのような言葉を付け加えることが出来るだろうか。「解説」なんてヤボな作業を行うことが出来るだろうか。」と、それではそれではなおのことである。私とて、どんな言葉を付け加えることが出来るだろうか。「レビュー」なんてヤボな行いが出来るだろうか。なのだから。