あんまりな/中野翠

makisuke2003-01-13

あんまりな
私は断然「中野翠」贔屓である。年々歳々その傾向が強くなるようだ。

年の初めに彼女の日記を読むようになって、はや4年。今年も例外なく、日記「あんまりな」を読む。今年とか去年とか来年とか、物事を区切って考えることの苦手な私ではあるが、「たいていの騒ぎは『浮世の彩り』と、笑って眺めて」いるという、彼女の日記で一年を振り返る。それが恒例の行事となりつつある。私のささやかな楽しみというわけだ。

中野翠という人はつくづくと「見る人」だ。「眺める人」だ。それは子供の持つ好奇心にも繋がるような「観察の人」なのである。見て感じて書く人だ。よく見てよく感じてよく書いている。

見る人は、往々にして意地が悪いのではなかろうか。人間観察が好きです。なぞという人は、決まってアラ探しが趣味だったりするモノ。彼女の場合も例外ではない。この世の中の出来事を余すことなくじっと見る、フェリーによろしく変わった顔をしげしげと眺める。そんな人だからこそ自然と意地が悪くもなるわけだ。

だからこそ、好きも嫌いもはっきりしているのではなかろうか。それもやはり、年々歳々はっきりしてきているようだ。嫌いには厳しいけれど、それでも嫌いを語らせるとどこかとぼけた味がある。やはり悪口の中にこそ、その人の真の味があるのではと、私は生意気にも思っているのだから。

彼女の立ち姿にはいつでも「カクシャク」としたものを感じてしまう。もちろん年寄り扱いするにはまだ早い。失礼な話でもある。それでも、カクシャクという言葉が良く似合う。中野翠という人は、強気で元気でオシャレな、よい年寄りになるのではなかろうか。

彼女は、今もって原稿用紙に鉛筆書きのスタイルだ。便利に疑問を感じ、ローテクを愛している。時折挟まれる、手書きのイラストも「おまけ感」「お得感」「親密感」があって私は大好きなのだが。机の脇には愛用の電動鉛筆削り器を置いているという。時折ガッーと削っては調子を出しているそうだ。何だかその姿を思い浮かべてニヤニヤしてしまう私なのだが。そうなんだ、彼女の魅力は、鉛筆(書き)ならではの魅力ではなかろうか。

そして私が彼女を信頼しているのは、例えばこんな文章に出会うからだ

唐突だけれど『長生きしたいな』と思った。この世の中には私の知らないことが多すぎる。年とともにわかったことも多いけれど、奇妙なことに、わからなくなっこともどんどん増えていくのだ。コケのことも蜂のことも、私は今までボンヤリとしか見て来なかった


そしてまたこんな文章にも出会えるからだ。

自分を、人類を、ミジンコとたいして変わらない存在だと感じる人。そのことに悲しむよりも、すがすがしさや面白味を感じる人。そういう部分を持っている人が私は好きだ

そしておととし、最愛の人「志ん朝さん」を亡くした彼女。

四十九日が過ぎ、最愛の人のテープを思いの外冷静に聞けたという。「心の中にカサブタがちゃんとできた」と、書いてある。よい言葉だなと思う。最愛の人を一人静かに懐かしみ、心に刻む姿が、この日記の中でもここかしこに顔を出す。

その文章に触れる度に私は思うのだ。私が聴きたいのは、きっとそういう言葉なのだと。私が見たいのは、きっとそういう顔なのだと。楽しい文章はこの世にはたくさんある。おもしろおかしいものも、調子が良いのも、この世には溢れている。それを読むのも悪くはない。それでも私が求めて止まないのは、それなのだ。もっと奥の方から溢れるような、他の誰かでは紡ぐことができないような、その人の胸に灯る「白い薔薇と赤い薔薇」のようなモノなのだ。