シティ・オブ・ゴッド/フェルナンド・メイレレス

makisuke2003-09-20


こんな気持ちは、不謹慎と言われてしまうのかもしれない。

それでも、私には押さえることができなかった。自分のこの気持ちに、嘘をつく事ができなかった。この映画を観ながら、自分がぐんぐん(まるで目に見えるかのように)元気になっていくのに、驚いていた。

シティ・オブ・ゴッド」に描かれているのは、言ってしまえば「殺し合い」だ。貧困あり、ドラッグあり、盗みあり、暴力ありの「終わりなき殺し合い映画」と言っても過言ではないだろう。権力闘争を繰り広げ、まさに生死を掛けた「サバイバル・ゲーム」に興じているのは、大概が成人にも満たない(中には本当に年端も行かない)子供たちなのである。

この映画が実話に基づいていると言うのだから、ブラジル・リオデジャネイロの郊外にあるという「神の街」の、悲惨さ深刻さも窺える。そのことに心を痛め、言葉を失う人もいるかもしれない。無邪気に銃を手にし、善悪も分からないまま、もしくは、それ自体を楽しみながら「殺し合い」を繰り返す子供たち。事実ばかりを耳にしたのなら、この街のこの子供たちの明日など、誰も想像が付かないと思う。

それでも、ナゼダロウ。

この映画から立ち上ってくるのは、間違いなく「エネルギー」なのだ。まばゆいほどのエネルギー。将来や明日のためのエネルギーではない、人が今生きるという、ものすごく根本的なエネルギー。おそらくこの街は生きる事も死ぬ事も、人々に常に寄り添っている。誰も私たちのように(無為に)怖がりはしないだろうし、無自覚でもない。動物のように、知っているのだ。そして子供たちは(例え殺しを楽しむ顔であれ)ココロから笑っている。全力で駆けている。音楽や踊りを体が知っている。それが画面から溢れてくる。

悲惨なモノ深刻なモノを、したり顔で語っても何も始まらない。私たちはどんな状況であれ(伝えるという時は)裏切っていかなければならないし、裏切られたいと思っているはずだ。そこに大きな風穴を開け続けることが、生きている私たちの特権なのだから。

近頃の私にまとわりついていた「ヤバイ」感じ。知らず知らずに追いつめていく自分自身とか。かといってそこから出ていくきっかけも、タイミングも計れないまま部屋でずっと膝を抱えている(もちろん、例えなんかではなく、本当に)シチュエーションとか。そんな(大げさに言ってしまえば)、死んでいるような、腐っているような、自分をじわじわと殺していくような、腐らせていくような、有象無象のモヤモヤをぶちのめして吹き飛ばしてくれたのが、この映画「シティ・オブ・ゴッド」だ。

まるで「憑き物が落ちたみたい」に、映画館を後にする私は元気になっていた。単純と言われようが、不謹慎と言われようが、構わない。もちろん、音楽だってカメラだってとっても良い。私たちを一時だって飽きさせない。それでも私はこの映画の、このエネルギーがたまらない。このエネルギーこそが、私には今、必要だったし、尊い。と、ココロから思っているのだ。


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