グロテスク/桐野夏生

makisuke2003-08-10

グロテスク
桐野夏生」の書く女達は、いつだって好きになれない。

嫌な女愚かな女醜い女。感情移入とは一番遠い所から、入っていくのが常のこと。この本「グロテスク」も例外ではない。いやむしろ、その度合いはいつもより激しい。誰もが誰もエゴが丸出しで浅ましい(それは女に限らないけれど)。それでも本から、気持ちが反らされることはない。そこには作者の「力」を感じる。とにかく強引なぐらいグイグイと惹き付けて読み進めさせる「力技」。そのせいだろうか、この本を読み終えた私はクタクタにくたびれていた。そしてさっばりとこの本から顔を上げ、毎日の暮らしに戻っていくのが難しかった。引きずられた。自分の立ち位置がグラグラとする。そんな本に出会ってしまうことが、私には時々あるのだ。

物語は「わたし」の語りで進められる。その湿った語り口は禍々しく、視線は意地悪く、どこか猟奇的な匂いさえする。江戸川乱歩の「人間椅子」や「芋虫」を遠くで思い出したりもした。

「わたし」には超人的な美貌を持つ妹「ユリコ」がいる。物語は「ユリコ」と「わたし」の同級生でエリートOL「和恵」が、中年の娼婦となって殺される。その謎を辿るという形で進んでいくけれど。「謎解き」が物語の主ではない。いつぞや週刊誌を賑わせた「東電OL殺人事件」がこの物語のベースになっていることはすぐに分かるが、おそらく、この物語は現実を大幅にリードしているのではなかろうか。そんな勢いと力に溢れている。

「ユリコの手記」「和恵の日記」「張(娼婦殺しの容疑者)の上申書」などを盛り込みながら、「ユリコ」「和恵」「張」そして「わたし」の姿を立体的にあぶり出していく。有り体な言葉を使うなら「心の闇」に迫っていくのだ。それぞれの心の底に巣くう、ぬぐい去れないコンプレックスを晒していくのだ。

常識やバランスを崩すほどの美貌の存在というものは、決して穏やかな日常など約束してはくれない。まるでそこだけ磁場が崩れるかのように、様々なことが起こっていく。妹に何かにつけ比較される「わたし」はいつしか戦うことを止め「悪意」で武装することを覚える。

「わたし」に限らず「ユリコ」に関わった人々が皆「不幸」になっていく。落ちぶれ見る影も無くなっていく。誰の心にも終わることのない、憎悪と混乱と不幸のスパイラルを描いていく。その「ユリコ」自身でさえも、自分の力に復讐されるように滅亡へと進んでいく。「ユリコ」とは不幸の象徴ではないか。と、私は物語の半ば過ぎまで思っていた。

しかし、物語が終わりに近づくにつれ、私の考えは変わっていった。ここに「不幸な出来事」など存在しないことに気が付いたからだ。そして、思い出しもした。「桐野夏生」の書く女達が、ある時点を境にいつも目覚めることに。それは彼女たちの奥底に眠る姿なのかもしれないし、思いも寄らない自分の姿かもしれない。とにかく、彼女たちは目覚めていく。後戻りはできないその場所から、大きく根を広げて飛び立つのだ。それは醜いアヒルの子が、白鳥になるのではない。空恐ろしい「怪物」への変身だ。とにもかくにも、目覚めてしまった彼女たちは絶対だ。嫌な女だろうと愚かだろうと醜くかろうと。私は言葉を挟めない。

物語の終盤。「和恵の日記(肉体地像)」には、とにかく引き込まれた。私は彼女のことは最後まで好きにはなれない。それでも彼女が、その痩せ過ぎてボロボロな体ひとつでつかみ取ろうとした世界を。世界を征服するということを、羨ましいとさえ思っている。彼女が世間という荒波を、全力で泳ぎきったということだけは、誰にも否定される事のない事実なのだから。

誰か声を掛けて。あたしを誘ってください。お願いだから、あたしに優しい言葉をかけてください。綺麗だって言って。可愛いって言って。お茶でも飲まないかって囁いて。