「体の贈り物」レベッカ・ブラウン/マガジンハウス/2001年/

体の贈り物
ヘルパーの仕事を始めて、この夏で三年になる。


私は未だこの仕事について、他人に語ることにためらいがある。同業者の人たちにもなじめない。福祉系の大学に進んだけれど、そこに蔓延する雰囲気になじめずに、二年でそこを後にもした。それなのに、気付けばこの仕事に戻ってくる私という人間は、いったいなんだろうか。


周りの人は首を傾げる。人間との関わりを否定しながら、人と深く関わることなしでは成立しないモノに、惹かれていく自分というのは、いったい何者なんだろう。時として、すべてのことが重くなる。「人が好きだから」そう疑いもなく答える同業者に会う度に、自分がいかにこの仕事に向いていないか、いかに危ういバランスで働いているかを思い知る。


「介護」とは良くなることのない仕事だ。時として、必死になる家族や私たちはそれを忘れてしまう。どんなに手を尽くしても「死」からは逃れられない。一時奇跡のように快方に向かったとしても、それは奇跡であって、結果ではない。どんなに手を尽くしても、結果さえでないこともある。時間をかけても相手との距離は縮まるとは限らない。むしろ開いていくことさえ珍しくない。もしくは溝は溝として残るのだ。


「介護」とは非日常だ。それが日常になる。理不尽なこと、理解を超える出来事が、当たり前になる。ココロは鈍くならざるを得ない。介護をする人たちすべてが何処かでココロを押し潰しているように思う。そうしなければ、務まらない。次々に起こる出来事に、自分という存在が面白いように振り回されるのだ。


その先にいったい何が待つのだろうか。


それでも、辞めようとは思わない。ナゼダロウ。理屈にはならない。ただただ、病んでいる人の側にいるのが好きなのだ。小さくなっていく、透けていく、自分という存在が心地よいのだ。言葉を交わすことも望めない世界が、好きなのだ。そこに流れる時間が、とても濃く贅沢であるように感じるのだ。もしかしたら、人は不謹慎と言うかもしれない。それでも、密かな楽しみを満たすかのように、この仕事に惹かれているのだ。とにかく私は人が「死ぬ」その最後の瞬間まで立ち会っていたいの
だ。


「体の贈り物」の中には、私が惹かれているなんとも静かな時間が、行く度も書かれていた。ヘルパーの仕事は、もう少し雑音が多いにぎやかな仕事ではある。とりあえず「死」というモノは少し遠くに置いてあって、毎日の雑多な事柄を対処していく方が遙かに多い。


それでも、私はいつも、この静かな感じをアタマの何処かに置いて仕事をしている。私が聞かれ答えること、話すこと、ヘルプすることすべてが、大きな目的に添ってなされている。相手の状態を--肉体的であれ精神的であれ--楽にするために、五感を働かせ、頭を使う。私がすることでありながら、私の介入が小さくなっていく。私など、そこにはいらないも同然なのだ。

私のありよう、生きようなど、この世界では意味がない。どうするか、それだけだ。「やさしさ」「思いやり」では寸法が合わない。もっとクールでもっと静かな。かけひきさえ存在する世界。それが私が居着こうとしている、世界なのである。


この本は、物語としての贅肉をとことん削ぎ落として書いてある。誰かにとって「物語」はいつも、甘く切なく心地がよい。それでも、それらを捨てたとき、捨てねばならないとき、むき出しの救いのない世界が現れる。それがこの本だ。この荒々しく静まり返った世界こそが、今の私が一番求めている世界であり、行かねばならない世界なのだと思っている。


                  2001-05-20/巻き助