「家庭の医学」』レベッカ・ブラウン/朝日新聞社/2002年/

家庭の医学

私にとって3冊目のR・ブラウンとなる「家庭の医学」を、読み終えた。


厚い本ではない。 簡単に読み終わってしまいそうなこの本を、私はとても時間をかけ、一言一句読み落とすまいとして読んでいった。終えて、一つ息を吐いた。温かい飲み物を一杯飲んだ。そしてもう一度、この本を最初から読み返して、今、このレビューを書いている。 それが私に出来る、彼女への一番の敬意の表し方ではないかと思ったから。


この本に書かれているのは「大切な人を看取る」ということ。ただそれだけだ。


訳者である柴田元幸さんの言葉を借りて説明をするならば「母親が癌に侵されていることが判明し、その手術や治療に立ち会い、やがて亡くなった母を見送るまでを綴ったノンフィクション」ということになる。

読み終えた時、その印象があまりにも美しく静かで清潔的なことに、実は少し戸惑った。


人が最期に向けて決して美しくはいられないことを、私は「仕事」を通じて知っている。人は最期に向けて、言ってみれば醜くなるのだ。それは形だけに留まらず、匂いであれ色であれ言動であれ、そうなのだ。人は最期に向けて少しずつ、変わっていく。「その人」の部分をなくしていくのだ。本当に悲しいことだけれど、それが「死んでいくプロセス」なのではないだろうか。


しかし、読み返して私は気がついた。そして安心もした。この本が美しく静かで清潔なのは、人の最期を美しく切り取ったからではないのだ。彼女はコラージュなどしていない。むしろ正直であろうとしている。実直なまでに、あらゆることを書き記そうとしているのだ。

だからこの本は、グロテスクなのかもしれない。


それでもこの本から溢れて止まない静謐さとは、気高さとは、清潔さとは、ナンダロウか? それはきっと、これを読む私たち、そしてこれを書くR・ブラウンの「願い」であり、「祈り」であり、立ち向かう「覚悟」のようなものではないだろうか。その「心」が溢れているからではないだろうか。


彼女は、いつでも「心」と「体」を分けている。その行為を私は支持したい。「体」に起こったことを記す時の、彼女の言葉が好きなのだ。そこに「心」を挟み込まない。いつでも「心」は後から付いてくる。そして彼女の「目線」が好きなのだ。何物にも動じない、フラットなその視線。残酷なまでのその視線を、私はひどく誠実に感じるのだ。私もいつかそんな「視線」を持ちたいと思うのだ。


そして「仕事」に向かう私といえば、いつだってひどく具体的なのだ。 とにかく「体」を清潔にさっぱりとさせること。静かにゆったりと過ごさせること。出来うる限りの不快を取り除くこと。一緒にいること。


それが,少しでも「楽」に繋がることを祈りながら。私に出来ることは、やはりそれぐらいのことなのだ。人が出来ることは、いつだってつくづくと小さいのだ。

私たちから見れば、母が死んでいくというのは、体が震え、汗をかく、そういう出来事だった。でもそれはあくまで体の試練すぎなかったのだと私は思いたい。母のどこかほかの部分は、何か別のものによって助けられていたと私は信じたい。何か優しいものによって母が助けられていたと私は信じたい


そして私も信じたいのです。


私が介護している人たちの試練が「体」に起こっているものであるということを。 ほかの部分は、何か別のものに助けられているということを。 優しいものによって助けられ、温かい所に向かっているということを。 そしてその人が、いつまでもその人であり続けることを。


祈ってやまないのです。