「絵本を抱えて部屋のすみへ」江國香織/白水社/1997年/

それは、随分前のこと。水色のスモッグを着て、M保育園のすみれ組に通っていた頃の話である。もちろん田舎のネズミだった私は、幼稚園なんて気の利いたトコロは、雑誌の中だけにあるモノと思いこんでいたっけ。

その日の私は、広場でトランポリンに乗ろう!!と元気に駆け足をしていた。その時だった。下駄箱の影から、にゅうっと何者かが現れて、現れたと思う暇もなく頭の上で、パアーンと弾けるような音が鳴った。鳴ったと思う暇もなく、ガアーンという衝撃を受けて、その影の主は持っていた板のようなモノをその場に投げ捨て、振り向き様に「ばーか」と一言。言い捨てて走り去ったのだ。Sちゃんだった。板と思っていたのは忘れもしない「くろいうさぎとしろいうさぎ」の絵本。

さて、私がどうしたかと言えば、猛然と大きな声を張り上げて泣きました。あらん限りの非難を込めて泣きました。ばーかも許せなければ、不意打ちの卑怯さも許せない。それより何より、私のお気に入りで毎日毎日、お人形の髪を梳かすように眺めていたその絵本で!!S憎し。S許すまじ。私はM保育園が始まって以来の大声で、保母さんたちが駆け寄っても収まらず、お昼寝の時間になっても、しつこくしつこく泣き続けたというお話。

あの日の出来事を思い出す度。あんなにもまっすぐに、躊躇なく、怒ったことが、泣いたことが、あれからあるだろうか?今になって思うのは、Sちゃんをあんな暴挙に走らせた、私という子どもは、相当イヤな子どもだったんだろうということ。あの時の理由や成り行きを今更誰かに確かめたって、もう仕方のないこと。当のSちゃんだって、今ではすっかり、品のよいママになってる。あんな蛮勇ぶりはカケラもない。むしろ私がSちゃんでSちゃんが私の役回りだったら、この物語はもっとしっくり伝わったんじゃなかろうか? なんて思ったり。

いつだって「絵本」を読む時間は、私の背筋がぴっと伸びる時間。母の育児日記によれば、意地が悪くて、わがままだったあの頃の私が、ちやっかり顔を出す時間でもある。そんなコトしたら嫌われるわよ?「お構いなし!」そんなコトしたら、蔵に閉じこめるぞ!「お構いなし!」何から何までお構いなしで、妹たちを従えていた、あの頃の日々。私の血や肉となったかけがえのない日々がよみがえる。

江國香織も、この本「絵本を抱えて部屋のすみへ」の中で、バーバラ・クーニーの絵本に寄せてこんな事を書いている。

彼女はくだくだしい感情表現をしない。葛藤だの矛盾だの、ぐずぐずした鬱陶しいものをひきずらない。私は、絵本というものは基本的にそういうもの--ひきずらないもの、すぱっと鮮やかに切りとるもの--だと思っている。

と、銀色のシャープなハサミに例えて、書いている。それを書く彼女のコトバも、シャープなハサミよろしく、すぱっと鮮やかに絵本を切り取っている。誰かが切り取ったモノ、慈しんで集めたモノ、包装紙で包み直したモノ、そんな物たちを読むのが私は好きだ(そういう意味において、レビューを読むのも好きだ)。誰かに深く愛されたモノは、それだけで、悲しいくらいにその輝きを増しているから。

絵本の魔力は、とにかく手元に置きたくなる所。借りるのもダメ。貸すのもダメ。立ち読みなんかもっとダメ。センダックをスピアをエッツをアーノルド・ローベルをとにかく手元に置いては眺めつ、取り出しては眺めつ、また撫でてみたりもしたいのである。そしてこの本「絵本を抱えて部屋のすみへ」の魅力は、今度は私のコトバで切り取れたら!!そんなワクワクした気持ちで一杯にさせるトコロでもある。

                  2001-12-23/巻き助