「日のあたる白い壁」江國香織/白泉社/2001年/

今度の日曜日に、美術館に行きたくなった。

江国香織さんの「絵本を抱えて部屋のすみへ」と「日のあたる白い壁」は対をなすと言えばいいのか、大きな同じ流れの中にあると言えばいいのか、根っこを共有していると言えばいいのか、とにかく、切り離しては考えられない。そういった本ではないかと思う。そう、とても親密に育ってしまった姉妹のような。

片や愛する絵本に寄せた本。片や愛する絵に寄せた本。この姉妹を手に取ると、彼女が「本」を作ること読むことを、とても大切にしていることが伝わってくる。本を愛している人の本はいい。安心するから。

そうは言っても、彼女の「本」を手に取ったことが、ほとんどない。その昔、とてもきれいにしつらえたアルコール中毒の話を読んで、それっきりである。それでもこの二冊を読んで、私は彼女の事が分かってしまったーもちろん、分かったなどと言うことは、思いこみに過ぎないことで、根拠も確信もそれを確かめる術さえ持たないのだけれどーこの本の中で、彼女が選んだ一枚一枚の絵を見ていると、すごく納得がいく。彼女が選ぶ、その必然が分かるのだ。その絵でなければならないということが。

そして私はこんなことも想像してみる。彼女は、高野文子の漫画も好きだろうし、矢野顕子のピアノも気に入っているだろう。サティも聴くだろうし、白いシンプルなワイシャツも好むだろう。石鹸も、ビロードの手触りも、ガーベラの花も。それはどんな親しい知り合いよりも、はっきりと感じられるのである。そして、もちろん、重要なのは本当に彼女が高野文子なりガーベラなりを好きかどうかではなく、そうやって、どんどん私の中で彼女が広がっていくことで。彼女が立体になった。色濃い影を持った女性になった。息づき始めたということなのだ。

この本の中で、繰り返し彼女が言っていることは、相反するモノが、しかし同時に存在するということ。その一見あり得ない同居を強く愛しているということ。求めているということ。豪胆さと繊細さ、おおらかさと正確さ、単純さと複雑さ、つつましさとあでやかさ、強さと脆さ。それを可能にするのが技術であり。完成であるということ。そういった世界を彼女は強く求めているし、見据えているのだろう。

そして、物事なり人なり時なり生物なりを中心で捉えて、堂々と描くということも大事にしている。余計なモノがない。と、いうことも。そしてそれらのことは、彼女が作家として書いて行く上でも、大切にしていることだろう。

本を閉じた今、二冊の姉妹は私にとってなかなか忘れがたいモノになった。

それでもやはり、彼女の小説を手にすることは、ないような気がする。

身近に息づき始めた彼女だけれど、私とは折り合わないような気がするから。彼女の切り口は鮮やかすぎて、痛いのである。その潔さに何だか後ろめたくなってしまうのである。私は、もう少しぐずぐず、めそめそ、じたばたしていたいし。している人が好きなのである。これは、私にとって、ある種とてもすがすがしい決別で。背中を合わせて立ち、右と左に別れるような、少し気取ったさよならの儀式。

だけど実際は、私よりも感じる人に、記憶し、思いを育て、忘れない人に、嫉妬せずにはいられない、そういった自分のあさましさからかもしれないけれど。

                  2002-01-12/巻き助