ヘルタースケルター/岡崎京子/祥伝社/2003年/

朝日新聞の今朝の朝刊に、第8回 手塚治虫文化賞が発表にななっておりまして、岡崎京子さんが大賞でした。岡崎さんの病状についてもこんな記事が載っていました。とにかく、少し安心しました。

見舞客の話に、笑い声をあげたり、車いすで外出できるようになり、本作の出版にあたっては原稿のチェックもしたという

昔書いたレビューがあったりで。のっけておきます。
ヘルタースケルター (Feelコミックス)

面白かった。もちろん「面白かった」などという言葉で、この本が片付く筈もないのだけれど。とにかく今、読み切ってドキドキしている。ドキドキして、興奮して、眠れなくなっている。そして、それがとてもいい気分なのだ。

私は今まで「岡崎京子」の賢明な読者ではなかったと思う。彼女の作品を読むのはいつだって、少しばかり「勇気」もしくは「努力」が必要だったから。

私には、分からなかったのだ。彼女がいつも書きたかったという「一人の女の子」のことが。「たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ちかたというもの」が。理解できないかったのだ。

落ちていく様を見るのは、正直それほど辛いものではない。それなのに、私はいつだって彼女たちを正視できない。殺伐としていく自分のココロが分かるのだ。彼女たちが落ちていく「理由」がわからない。理由などないと言うならば、そこまでの「必然」が分からない。その「背景」が分からない。その「切実」が分からない。私に分かるのは、ただ彼女たちが加速度を付けて落ちていること。その「事実」ばかりだ。(おそらく)当たり前の(ある意味)真っ当な、女の子が落ちていく。その事実が身も蓋もない。そう感じてしまうのは、私の足りなさゆえなのか。ああ、そうです。自分の足りなさを正視するのは、いくつになったって上手くはできないのです。

それでも私は「岡崎京子」を手に取ってしまうのだ。「読みたい」「読んでおきたい」の、欲望に逆らうことは難しい。そしてその欲望を呼び覚ますのが「岡崎京子」という人なのだから。

恐れてはいけない 選択はもうすでに行われたのだ あたしはもう 選んでしまっているのだ

読み始めてすぐに、ばかばかしい後悔もした。読み続ける努力も必要だった。それらに打ち勝って「ヘルタースケルター」を読み終えた。最初は足早に、それからゆっくりともう一度。そして、分かったのだ。スターであり整形美人である「りりこ」という女の子の落ちる「必然」が「背景」が「切実」が。私と一番遠くにいる筈の「りりこ」という女の子の中に、その「理由」を見つけたのだ。その発見が私のすべての疑問を吹き飛ばした。それは同時に「落ちる」ことへの「恐怖」も「憧れ」も吹き飛ばしてくれたのだ。

私は今、とても力に満ちている。それはこの本から受け取ったものなのだ。そしてそれは間違いなく「岡崎京子」その人から、受け取ったものなのだ。ここにあるのは進むことへの、選択することへの、全肯定。人の欲望は、変貌は、絶望は、止められない。留められない。それを怖がっていたって仕方がない。

だから(本当に勝手な言い分だけれど)彼女は大丈夫。きっときっと大丈夫。その思いを一人確信する。何かに行き詰まればここに、この本に、彼女自身が帰ればいいのだからと。

そして、最後に誤解を恐れずに(勇敢に)、ここに書いておきたいと思うのだ。

岡崎京子さん。アナタはいつであれ、どんな形であれ、私たちの前に再び現れてくれるはずです。もしくは、そうせねばならないのではないでしょうか。それが、期せずしてこの本を書き始め、書き上げてしまったアナタの、運命なのではないでしょうか。他人(ここでは私を指します)はいつでも勝手なことばかりいうものですが。私には、この本がそういう力を含んでいるような気がしてなりません。なぜならアナタは私たちのスターなのですから。アナタの新しい冒険を、私たちはこの目で見届けたいのですから。

スターというものがしばしばきわめて興味深くあるのは
スターが癌と同様 一種の奇形(フェノメーヌ)だからです

                 2003-05-04/巻き助