刑務所の中/花輪和一/青林工藝舎/

昔、まねきねこさんから印象深いメッセージをいただいたreviewがあったので、のっけておきます。

刑務所の中

「お母さん、そりゃないよ」と、言い続けていたような気もする子供時代。いわゆる教育ママではなかったけれど、彼女なりの掟や信念にのっとった躾にはやたらと厳しかったっけ。独特の彼女のこだわりを書くのはここでは割愛するものの、極めつけが、高校時代の出来事だった。

拘置所に行けと言う。おじさんが傷害事件で捕まったから、拘置所まで面会に行って来いと言う。明日学校が終わったら、その足で、差し入れの風呂敷包みを抱えて、会いに行ってこいと言う。参った。女子高校生の私はかなり参った。行きたくないよう、怖いよう、みっともないよう、人に見せられないよう。必死に訴えたモノの、社会勉強だから、その一点張りでゆずらない。さらには、それぐらい出来なくてどうすると変な理屈で押しまくってくる。まさに「お母さんそりゃないよ」ここに極まれり、だ。

さて、花輪和一の「刑務所の中」である。あの日あんなにびくびく入っていった拘置所が今更ながらもったいないような気さえしてくる。面会室でおじさんを目の前にして、訳も分からず泣き出してしまったあの日の自分というのも、随分間抜けな気もしてくる。おじさんの方だって困っただろう。「なんで来たんだ?」と言ったっきり絶句した気持ちも分からなくもない。そんなことをツラツラ思い出しながら、この漫画を読んだ。

拘置所での、刑務所での克明な記録漫画とでも言おうか。コト細かい記憶と細部へのこだわりに、ココロが静まり、ほほえましくさえ感じてしまう。なんとも不思議な空気と時間が流れている。この人の感じている時折の寂しさは、刑務所の中だろうが、外だろうが変わらないモノなんだろうなあ。

刑務所に入ったからといって、悔い改めるといった雰囲気もない。たしかに懲りてはいるだろうが、妙な充実感まで伝わってくる。何だか他人事ではない親近感まで伝わってくる。刑務所に入れるということは、どれほどの意味をなすモノなんだろう。そこで行われている、細かい規則、細かい取り決めが、どんな意味を持つのだろう。あらゆるコトに順応していくモノなんだなあ。最初の違和感、窮屈な感じはどこへやら、私もすぐに刑務所の日常に馴染んでしまったような気分。その中でそこそこの楽しみを簡単に見つけてしまうモノなんだなあ。

甘いモノに恋い焦がれる人たち、5人部屋で修学旅行のようにはしゃぐ人たちは、どんどん無邪気に映ってくる。そしたらここに入れることで幾分かでもココロの慰めになる人たちの気持ちは、報われないなあ。なんて。

人間が生きていくということは、とんな時でもどこか間が抜けていて、暖かいおかしみを帯びたモノなんだなあ。

誰もが作者のようにそこに馴染み、やっていくとは限らない。それでも、懲罰房で黙々と袋貼りの仕事をしながら「すごく充実している 誰とも会わなくてもいいし 仕事は頭を使わなくていいし これは自分にぴったりの仕事だな」と呟く作者に親近感を覚えている私というのも、何か少しまずいような気もするのだが。もしかしたら誰のココロにもあるひっそりとした欲望なのかもしれないな。こういうのって。

あの日、社会勉強と言い放った母親は少し強引だったけれど、自分の弟が拘置所や刑務所にお世話になろうとも、どんどん会いに行かせたというのは、何だかそれはそれですごいことのようにも思えてくる。あの日、面会室のガラス越しに対面したおじさんも、小指はないけれど今はすっかりかたぎで頑張っている。義理人情に厚いいい人だ。あつすぎではあるモノのそれがおじさんの良い所。いつまでもパンチパーマで頑張って欲しいモノである。

                   2001-06-18/巻き助