熊の場所/舞城王太郎

熊の場所
夏風邪を引いて熱がどんどん出て、汗びっしょりになってうんうん唸っているAの看病(頭に冷やしタオルをのっけたり、汗を拭いたり、体を冷ましたりするためにあれこれするといったオーソドックスなモノ)をしながら、舞城王太郎の「熊の場所」を一気に読み切る。前に一度読みかけて猫殺しの話しかぁ読み進めると嫌な気持ちになるかもなぁ…と、挫折し積ん読にしておいた、一冊だ。

熊の場所」「バット男」「ピコーン!」の三つの短編が入っているんだけど、今回は終わりの「ピコーン!」から読み始めたのが正解だった。まずは独特の文体(たらたらたらと続いて、いかにも今どきの言葉で埋め尽くされてる)に、良いのか悪いのかの判断もつかないまま、読み進めて行ったのだけれど、次第に感心していることに気が付く。ここに書いてあることは小説的であるかどうかは分からないし、突飛な感じも雑な感じも消化しきれていない感じもするのだけれど、全くの正論というか、正しいことや揺るがないあるべき姿や全きことが書かれているんじゃないかと思ったから。物語の方は、暴走族あがりの女の子が、彼氏を更生させるために、フェラチオ一万本ノックに挑戦するところから始まるのだけれどね。それでも、この話の中には、人の愛し方、愛情を相手に伝える伝え方、愛情の育み方や、人への謝り方、物事の解決の仕方なんかが書かれているし。して許されることと許されないことがきちんと書かれている(舞城王太郎ってそこの所はすごくはっきり書く人だと思った)し。人が誰かの不在を受け止めて、それでも生きていかなくっちゃっていう、物事の真理みたいなモノも書いてある。主人公の女の子が人やモノを見る目は暖かで、人間を信じている人が書いた話じゃないかと感じた。すごく全うで、簡単で、的確。小説というより、ガイドブック(生きている間の一時に必要な)と言おうか、とにかくこういう話を国語の教科書にのっけてみたらばどうだろう。そんなことも考えた。人の命の重さとか、どうして人を殺しちゃいけないかとか、そんな疑問は感じなくなるかもしれないな。

続いて読んだ「バット男」がとにかく良かった。これは男の人が抱える根本的な恐怖ではなかろうかと思ったり。「バット男」=「弱いヤツ」に対する主人公の視線に共感理解したり。主人公の物事への対処の仕方に共感理解したり。自分がその昔(高校生の頃とか)感じていた、漠然とした恐怖や恐れみたいなモノを思い出したりしましたよ。この人の「神」という存在の捉え方も好みだなぁとか。もう一つの短編「熊の場所」の中にも存在する「恐怖」という存在。それを消し去るためには、その源の場所に、すぐに戻らねばならないということ。それを怠ると「バット男」に脅え、付きまとわれてしまう。「バット男」は、代を替え人を替え、人々の中に受け継がれていくものだし、無くなるものでもないし…とにかくこの「バット男」に夢中になれたので、最後に読んだ表題作の「熊の場所」は、ちょっと結末はごり押しかなぁとも思いながらも、そのテーマの持つエッセンスのようなものはしっかり楽しめました。

人間にはきっちり対峙しなければいけない物事があって、それからは逃げられないけれど、逆に言ってしまえば、何も漠然と怖がったり恐れたりするんじゃなくて、要はきっちり向き合うっていう行いを続けていけば良いことで。そんなことも考え、読みながらはぞわぞわと怖がったりもあったのだけれど、むしろすごく納得してこの本を閉じることができた。いたずらな恐怖は残らずに。舞城王太郎は信用できる。そんなことも感じながら。しばらくこの人、追いかけて読んでみようかな。