サングローズ/Cocco もう一度書き直したreviewから

あの時のレビューは、あまりに不完全だった。天に召される位突き抜けた声に、まるで置いてきぼりをくったような、心許なさと淋しさでいっぱいになっていた。少し恨んだ。今は、もう少しいろんなモノが聞こえてくる。だから、もう少しここに書いておこう。

「サングローズ」のCoccoはとても新しい匂いがした。最後のアルバムにして、とても強く次を感じた。歌う事への純粋な始まりを感じるアルバムだった。終わりと始まり。死と再生。相反する強い匂いが込められたアルバムだった。

最後のステージにTVを選んだCocco。きれいだった。バレリーナのお辞儀は、カメラが追い切れてなかったけれど、私にはしっかりと届いたし。溢れんばかりの笑顔とピースサインに、鳥肌が立った。涙が溢れる前の、くしゃくしゃな気持ちが、込み上げてきた。ああ、良かった。良かったと、それだけ言うのが精一杯だった。あの笑顔は何もかもを語っていた。

最後の彼女の言葉が、おそらく一番忠実に届くであろう「SWITCH」。その中で彼女は激しく、歌い続けたい気持ちと、このままのカタチで歌い続けることの限界を語っていた。相反する強い思いの中で、引き裂かれるような。

芝居をやっていた頃、私はいつも「うたうたい」と「絵描き」に憧れていた。芝居というまどろっこしいシステムに、うんざりしていた。一言台詞をしゃべるための、何ヶ月もの稽古。しがらみの多さ、巻き込む人たちの多さ、一人では何もできない事へのいらだち。常に古びていく感情。見る物に預けるしかないという心許なさ。そして、いつも行き当たるのは、自分に欠落している、人を信じ、打ち解けるということだった。

誰も巻き込まず、誰も信じず、その中で自分と向き合えるシステムに焦がれて私は舞台を降りた。たくさんの人を、攻撃したし、されもした。それをすべて「舞台」という自分が愛したモノのに、罪を着せ、私は芝居を憎んでもいた。

だけど私は間違っていた。こうやって舞台を降りた今、少しも前と変わらない。相変わらずやっかいな自分を抱えて生きている。何をしていてもいなくても、私はすぐに自分であろうとし、それが私をうんざりさせる。Coccoは今でもたくさんの歌が生まれているという。この世に放つことのない歌が、次から次へと生まれているという。

『人が残せるのは歌だけだと思ったの。だから大事にしなきゃね。言葉や、歌や、口伝えで残るもの、この目で見たもの、この指で触れたもの』Coccoは自ら歌う場をつぶし、歌うことを選んだ。彼女はこれからも歌うことを強く望んで、そのために畑を焼き尽くした。『焼け野が原』を歩くCoccoは、寒くて歩けない。それでも、すべて焼き尽くさなくては歩き出せない。何かを失って人は結実する。何かを失うことは、何かを得ること。

「動けないのは あなただけじゃない」とCoccoは歌う。Coccoに強く惹かれたのは、その結末のなさ、相反する想いが常に居座る姿、そして常に信じ、嗅ぎ分けていくたくましさだ。変わらないモノなどないと、くり返し歌っていた。それでも求めたのは、変わらないモノだった。彼女の矛盾を愛しく思う。屈託なく笑う罪のない笑顔と、引きちぎれそうな目を。忘れられないフレーズを。裏返る寸前の危うい声を。彼女の焦がれた沖縄を。そしていつもきれいだった立ち姿を。

何もかもをなくした今、Coccoの目は一番澄んで、輝いているのだろう。「サングローズ」私はまた、すり切れるまで聴くことになるだろう。そして、私の言う「いってらっしやい」が彼女の耳に届くことを、私はここで祈っている。

               2001-04-22/巻き助