雲南の妻/村田喜代子

雲南の妻
雲南の妻」を半ば近くも読み進めた頃、連れあいにオススメをした。

「なかなか面白いよ。中国茶を飲む場面だとか、雲南の風景なんかがいい感じだよ。終わったら回すから、読んでごらんよ」と、言ったのを覚えている。

私も連れあいも、面白かった本に出会うと「読んでごらんよ」と、回しっこをする。すぐに読むこともあれば、しばらく積まれたまんまになることもあるけれど。お互いに読み終わり、一言二言感想を言いあうのが、楽しいのだ。

なのに私は、フカフカの毛布に潜り込み、この小説を一気に終いまで読みきって、途方に暮れてしまったのだ。

「どうだった?」と訪ねてくる彼に、私は「う〜ん」と、曖昧な返事を返すことしか出来なかった。うっすらと張り付いてくる、この後ろめたさはナンダロウか。まるで「共犯者」になってしまったような、この気分はナンダロウか。そんなことを考えていたから。

ここに書かれている世界は、女が女を娶るという、アブノーマルな世界ではある。あるけれど、生々しさやいやらしさは感じられない。「後ろめたい」と書いたけれども、むしろ伝わったのは、強さであり健やかさだった。女同士で集まってするたわいのないお喋りを聞くような、心地よさであった。そもそも女同士の結婚は、山深い少数民族の間で起こった、働き手の確保のようなモノ。働き者の女同士が、友情のような絆で結ばれて田畑を守っていくという、実に叶ったものなのである。

中国人は「茶に酔う」と言うけれど、まさにこの本にもそんな酩酊感が漂っている。雲南という土地がもたらす描写のせいなのだろうか。「村田喜代子」という人の筆のせいなのだろうか。ゆらりふわりと、次第にいい気持ちになっていく。ここであってここではないような。よい香りに包まれていくような。トロリとした甘い時間が流れているような。読んでいる私も、少し酔っぱらっているような不思議な気持ちに包まれていた。

まるで、一時の濃く鮮やかな夢のよう。


そしてもう一度、私が感じた「後ろめたさ」を考えてみる。女にとっての「結婚」とは何かと思いは行き当たる。ここに出で来る「英姫」という娘は「男」が必要なのはセックスの時だけと言い切っている。そのセックスも「女」である主人「敦子」との静かな、たわいのない営みの中で不満などないという。大きな木に体を巻き付け、木と交わるようにして自分の気を整えていくこの娘に、やはり「男」など要らないのだろうか。

そして、この小説を読む私には、やはり夫があった。主人公の「敦子」のように二重婚でもしているような不思議な気持ちになってしまった。私の背後にも、「敦子」の妻「英姫」が寄り添っている。まるで永遠の妻になってしまったように。

私は普段夫に不満を感じた事はない。ない。と言い切ったものの、この小説を読んでいると、正直分からなくなってくる。私は彼を「男」とは見ない。もっと近しいものとして捉えている。それでも時々本当に時々、得体のしれない他人と暮らしているように感じることがあるのだから。

この本を読んでいると、自分の中にある深くて暗い井戸の底を、のぞき込んでいるようだ。その中にどんな種が眠っているのかと、確かめてみたくもなる。でもそれは怖いことなのだ。

私は「男」を求めているのだろうか。何処かで、細胞レベルで、私は彼らを憎んでいやしないだろうか。

この本の後味を何といったらいいのだろうか。酔っぱらってはいるのだけれど、どこかでしっかりと醒めている。とでも言えばいいだろうか?

とりあえず、この本は連れあいにはオススメしない。それだけは確かである。

                       2003-02-24/巻き助