平松洋子の台所/平松洋子

平松さんが大好きになった、きっかけの本。昔のreviewを発見したのでのっけておきます。
平松洋子の台所
我が家の米櫃は、ずっしりと重いガラスで出来ている。

それは有に一抱えはある広口瓶で、これまたずっしりと重いガラスの蓋が付いている。十キロの米が並々と入る大きさである。それを朝に夕に眺めて暮らしているのである。

連れ合いと暮らしはじめて間もない頃。小さな、お菓子屋さんを発見した。ずっしりとお腹にたまる、素朴なお菓子を作って売っている。スコーンやクッキーやショートブレットが大小様々の広口瓶に詰められて、かしこまって並べられていた。もちろん、きちんと作られたそのお菓子たちは、たちまち私を魅了した。しかし、なんと言っても私の目を釘付けにしたのは、そのガラスの瓶たちだった。これを米櫃にしたら!!そう思ったら、いてもたってもいられなかった。

この本を読みながら、ひとつひとつ大切に、モノを集め始めた日のことを思い出していた。ページを捲るごとに、ずんずん元気になっていく。縮こまって、しょぼくれていた自分が、どんどん更新されていく。街を歩く足取りだって心持ち歩幅が広い、手だっていつもより余計に振っているんじゃなかろうか。とにかく、ぐずぐずなんてしてられない。うつむいてなんていられない。背中がばんばん押されてしまうのである。

あの頃。持つことが下手だった私に、持つことは明日まで生きる約束のように思っていた私に、連れ合いは持つことをとても自然に教えてくれた。持ちなさい。集めなさい。我慢せずに買いなさい。彼はそれしか言わなかったけれど、その言葉から、大切にしなさい。使いなさい。楽しみなさい。と、私は勝手に解釈をした。

そして、醤油差しを持ち、猫を持ち、壺を集めた。鍋を揃え、クロスを持ち、鉄の包丁と軽い木で出来たまな板を持った。モノをもって好きが分かった。片口が好きで、朱の効いた古い皿が好きで、黒い皿はホレボレとする。好きが分かって、探して決める楽しさが分かった。醤油は「はっかり」に決め、塩は「粟国の塩」と「奥能登の天然塩」に辿り着いた。砂糖は「喜界島」の粗糖を、酢なら京都の「千鳥酢」が癖があって面白い。料理用の酒は「剣菱」みりんは「三河みりん」をそれぞれ一升瓶で常備している。ペットボトルが嫌いで、一升瓶が好きなのだ。

好きは、持つことで。持つは、暮らすことで。持ちたいと思うことは、外に出よう、訪ねていこう、関わろう、なのである。ともすれば、萎えてしまう私を繋ぎ止め、根を下ろし、深めてくれるのが、私が愛したモノたちなのである。もちろん、贅沢をしなさい、買いなさい買いなさい、溢れさせなさい、と言うのではない。落ち葉一枚、チーズの空き箱、海辺で拾った珊瑚や巻き貝の中にも、好きや大切は潜んでいるのだから、本当に、ぼやぼや歩いてなんかいられない。ぼやぼや生きてなんていられないのである。

さて、米櫃である。

台所の真ん中にどんと置かれたその米櫃は、一目瞭然。中身が減っていくのが見えるのである。確かに食べる物が溢れている今日である。ご飯でなくともパンだってパスタだってと事欠かない。それでも、米が減っていき、すかすかと向こうの景色が見え始めると、やはり何だか心許ない私である。フルサトの両親に電話をする。電話をすれば、彼らの作った精米したての米が週末には届くのである。その米をざざざあっーと米櫃に移す時間が、私はとても気に入っている。家事なんて呼べないほどの些細な作業ではあるけれども、並々と注がれる米を見ながら、フルサトのこと、そこで暮らす両親のこと、マイニチのこと、共に暮らす人のこと、を思いやる。それらすべてが詰まっているのが、この、私が選んだ米櫃なんだと思っている。

                   2002-01-01/巻き助