珈琲時光/侯孝賢

吉祥寺のバウスシアターで「珈琲時光」が本日までの上映ということで、急遽予定を変更してバタバタと出掛けました。チケットが購入してあったもので。Aとも待ち合わせてあったのだけれど、彼は仕事が終わらずに、結局見れませんで。上映が終わって表に出たら、外のベンチにぽつんと座っていましたよ。

映画の方は、何と言えばいいでしょうか?ストレスの募る映画でした。見る人によっては、心が洗われる和み系の映画なのかもしれませんけど、確かに全体に流れる電車のリズムは気持ちが良いようにも感じるけれど、私はずうっとイライラもやもやしていたので、最後の最後に一青窈の「一思案」が流れ始めた時には不思議な開放感が広がったぐらい(ああ、良い歌だな〜と、しみじみ思ったよ)。単純に退屈だとかつまらないとか言うのとはちょっと違って、この映画から「見て欲しい」って気持ちが伝わってこなかったのが、なんとも。むしろ「見なくてよいよ」「聞かなくってよいよ」って言われてるみたいで、辛かった。観る喜びを感じない映画だった。もう少し、どうにかして私たち(観ている人)と映画の距離を縮めてくれてもいいように思うんだけど。一瞬でも良いから、ヒロイン(一青窈)にはカメラ越しにこちらを見て欲しかったし、ちゃんと正面の顔を見たかった。語りかけてきて欲しかった。そういう形で引き込んでくれても良かったと思うんだけど。

映画に出ている人たちが、腹にイチモツありながらも何も言わない、あえて触れない。というスタンスが私には気持ち悪かったし。ヒロインの会話だけで私たちに伝えられる「妊娠」や「相手の人」や「ゴブリンの夢の話」や「生みの親と育ての親の話」は、少し強引にも感じられて。そういうエピソードを盛り込むのなら、もっと私たちに向けて作って欲しかった。すべてがエピソードして未消化で、フラストレーションがたまってしまった。

古本屋の店主(浅野忠信。ちなみに私はこの人の役者としてのスバラシサが未だ分かりません)肇という人物の位置づけもはっきりしなかった。私と映画の中に親密感が持てなかったように、ヒロインと肇の間にも行き来する気持ちが感じられなかくって。

むしろあらゆる取ってつけたようなエピソードを入れることなくして、ただのなんでもない日常を、電車や街や喫茶店や景色や食事シーンを見せられた方が、良かったように思った。ヒロインの住む部屋や洋服、街の様子なんかは嫌いじゃなかったから。それらを、もっと温かい目で見守れる「見る喜びに溢れる」映画が私は見たかったのだ。