ヴィタール/塚本晋也@新宿K's cinema

makisuke2005-01-21

ブーゲンビリアラプンツェルクムイウタサングローズ

これは、壮大なラブストーリーだ。こんなラブストーリーをワタシは他にしらないかもしれない。そして、この映画のラストが、ホントにホントに好きになった。こんな幸せな終わらせ方を、私は知らないから。もうそれだけで。これだけあれば、すべて良いのじゃないかとさえ、私は思ったのだ。

遅ればせながら、今年一本目の映画館で映画は、塚本晋也の「ヴィタール」となりました。ガラガラの映画館、わずか5、6人の観客に交じっての鑑賞だったけれど、私にとって今年の一本目に相応しい映画を選ぶ事が出来たなぁと、つくづく。

この映画を貫いているのは「私を忘れないで」という気持ち。その言葉を言いきるのは、こんなにもしんどいことなのだということを、身をもって思い知らされる。私には言えるだろうか、言い切れるだろうか、アナタに向かって「私を忘れないで」と。今はまだ、私にはその自信がないけれど。

この映画のエンディングには、Coccoの「blue bird」(映画のための書き下ろしらしい)が流れる。でも、この映画内でのCocco体験は、それだけには終わらなかった。そこここから、Coccoのあの歌たちが、溢れ出すように流れていて。これはCoccoのあの世界そのままなんだって。この映画こそが、Coccoの「首。」であり「遺書。」であり「雨ふらし」であり「風化風葬」であり「焼け野が原」なんだって。そう思って(もちろんBGMとしてそれらの曲が使われたりする事はなかったのだけど)。塚本晋也という人は、こんなにもCoccoとシンクロしてしまったのだろうか?こんなにウツクシイ映画を撮る人だったっけか?こんなにイロッポイ映画を撮る人だったっけか?こんなに丁寧なやさしい美しい映画を撮る人だったっけか?と、ワタシのアタマの中は涙交じりの疑問符でいっぱいになってしまいました。

今どき誰かの死なんて、この世の中にはありふれていて珍しくない。だけど、ワタシにとってのアナタの死は、けっしてありふれてなどいないのだ。だからこそ、全身全霊をもってして悲しんで痛んでいいのだ。人はもっと自分にかまけていればよいのだ。周りなど全く必要がない。ワタシが明日生きていくためには、世の中とか世界とか、すべて無関係なのだ。私とアナタ、アナタと私。この世の中に必要なものは、ただ、それだけだって事を思い出していた。