誰も知らない/是枝裕和@DVD

誰も知らない [DVD]
遅くなりましたが「誰も知らない」みました。みて良かったです。本当に。ヤギラユウヤ君良かったです。彼のあの目が忘れられなくなりそうです。ワタシも。そして「カナリア」のあの男の子と女の子のことも思い出しました。アキラも「カナリア」の彼らも、コドモでいることが力が無いということが、さぞかし歯がゆかったのダロウと思いました。悔しかったダロウと。コドモの彼らには総て荷が重過ぎた。YOU演じるコドモのママにも荷が重過ぎた。お父さん達だって荷が重過ぎた。総て無力のコドモ達が絡み合って引き起こした悲劇ナンダロウと。でもね「悲劇」と、今確かにワタシは書いたけれども、この映画は怒りや悲劇を描こうとしていないことが伝わってくる。悲惨な事件として描いてない。

存在を明かすことも許されていない、言わば闇の中の暮らしの中で、子供たちは楽しむことを光をきちんと見つける。禁を犯して飛び出した公園は、ディズニーランドのように楽しそうだし、ただのコンビニが巨大スーパーマーケットのようにキラキラと見えてくる。カップラーメンのカップで草を育てて、公園で洗濯をして髪を洗う。大きなものは小さいものを庇って育てて、皆が寄り添って手を放さずに、サバイバルのような暮らしを送っていく。その様がまばゆいくらいに美しく、幸せそうにも映ってくる。まるで彼ら自体が発光しているかのように。だからこそ、その光が奪われて、暮らしが破綻してしまった時の切なさは、言い様がない。結局コドモの彼らにはあまりにも力がない。いろんな意味で。彼ら同様この空しさを、このやり場のなさを誰にぶつけていいのか、ワタシも分からない。「悲惨な事件として描いてない」と言ったのはワタシだけれど、こんなシアワセが奪われていくコト自体が、悲惨でなくてなんだと言うのだとも、思ってしまう。やり切れない。やり切れなさ過ぎる。

結局オトナという立場では、誰にも何も救えないのかもしれない。だからアキラが、あの日スーツケースを埋めるために掘った穴の感触を忘れないまま、早くオトナになってと祈るばかりだ。早く早く自分のために守るべきもの達のために、オトナになって下さいと。力をつけて下さいと、祈るばかりだ。祈ることしか、ワタシにはもう出来そうにない。