この頃の読了本

  

日々ごはん〈5〉5冊目になる高山さんの日記。今度こそゆっくり読んでいこうと決めたのに、ついつい根を詰めて読み切ってしまいました。冬の終わりから夏の終わりにかけての日記。季節はずれの日記を読んでいると、自分の季節がこれから何処へ向かおうとしているのか、少しだけ分からなくなってしまったり。そんな気持ちの良い迷子のような気分で読みました。相変わらず、高山さんの日記を読んでいると、私もいろんな考えごとがはかどってしまいます。アタマの中が常に何かを考えているみたい。そして文章の感じも引っ張られるというか、影響を受けてしまうような。よりアタマの中のコトバに近い感じで書いて見たくなってしまうのですよね。そして一日が24時間なんて枠組みではなくて、もっと変幻自在で大きなモノのように感じてしまいます。

そしてこの日記に登場してくる「清水さんの畑」は、私たちが今年の2月まで暮らしていたアパートのすぐ側ということも写真を見て分かりました。私は自転車で朝に夕にその畑の前を通るのが楽しみでしたから。フルサトの畑を思い出しながら、その畑の野菜たちを眺めていたのですよね。すごく丹精されているのが伝わってきましたし。今の住まいのすぐ裏手にも立派な畑があって、おじさんが朝に夕に畑仕事をしているのが見られるのですけど、野菜が育っていく様は、目にもココロにもやさしいです。元来みしりな私ですが、そのおじさんには何くれとなく話しかけ、何とか仲良くなりたいと目論んでいるのですが、まだまだ道のりは険しいです。

あっ、そしてずっと言い忘れていましたけれど、A様の屋上菜園も続いています。白菜に小松菜に春菊に人参に茄子にピーマンと。まだまだ育っています。そんな私の毎日でもあるわけです。

「へんてこで、よわいやつはさ。けっきょくんとこ、ひとりなんだ」と口の端からつぶやいた。「ひとりで生きていくためにさ、へんてこは、それぞれじぶんのわざをみがかなきゃなんない」

麦ふみクーツェ我が家は夫婦揃っていしいしんじさんが大好き。*1クーツェもとてもとてもヨカッタ。私の中で「声に出したい日本語」は断然いしいさんの文章で、どうしたって声に出して読まないと気が済まなくなってしまいます。よいこととわるいことがミルフィーユのように重なっていて、だけど誰かが死んでしまうことや不幸な目に遭ってしまうことは、決して無駄な意味のないことではないのだなと。生きている人死んでしまった人この世にもういない人総てが大きな繋がりで、その中でたまたま生をうけている私たちは、しっかりと生きるという役目を果たさなくっちゃなんないなと。私はいしいしんじさんを読んでいると、少しだけジョン・アーヴィングを思い出してしまう。アーヴィングが言い切る「これぞ、人生」といしいさんから感じるモノが、私の中では一緒なのだな。

ニート

なんだかんだと、結局彼女の本はあらかた読んでいることになるかな?その絲山さんの新刊「ニート」読みました。いしいしんじさんの壮大な物語を読んだ後だったからかもしれないけれど、この新刊に展開されているごく狭い世界の物語にのりきれず。結果面白がれないまま終わってしまった。絲山さんは、やっぱり「海の仙人」がいちばん好きかな。あの本を読んだ時に感じた、スカスカした空気や人々の間合いが好きだった「この人は、上手いのだろうか?下手なのだろうか?いったいどんな人なのだ?不思議だ」という漠然とした興味が、そろそろ尽きてしまったような。この本にはいつもの心地よいスカスカ感(私がこの人の味と理解していた部分)がなかったな。

*1:ちなみに大概おんなじ本を読んでいる彼とは、読み終わって一言二言感想を言い合うのが私のシアワセだったりします。一言二言というのが良いのです