東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~/リリー・フランキー

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
塚本晋也ヴィタールを見た時にも思ったことだけれど、私たちはもっともっと自分のことにかまけていて良いのだな。と「東京タワー」を読み終えて、改めて強く強く思い直しました。リリーさんの「書かねば」という強い気持ちが、ひたひたひたと伝わってきて、途中から本を置くことができなかった。

今どき誰かの死なんて、この世の中にはありふれていて珍しくない。だけど、ワタシにとってのアナタの死は、けっしてありふれてなどいないのだ。だからこそ、全身全霊をもってして悲しんで痛んでいいのだ。人はもっと自分にかまけていればよいのだ。周りなど全く必要がない。ワタシが明日生きていくためには、世の中とか世界とか、すべて無関係なのだ。私とアナタ、アナタと私。この世の中に必要なものは、ただそれだけ。ただただそれだけだって事を思い出していた。

リリーさんの「オカン」と、私の「母親(仲ちゃ)」が、どうしてもダブってしまう。「自分の娘達にゃあなかなか会えないけーども、きっと何処かで誰かの世話になってるで。だーでお母さんも目の前にいるいろんな人の世話を自分の子どもの世話を焼くように焼くだけよ、それが何処かで自分の娘達につながってるでね。がっははは」と笑う我が母親は。根っからの「オカン」なのですね。そして、フルサトにいる頃は、母の毎日の温かい朝ごはんを食べてからせっせと部活動をサボりまくっていたことや、大学に行くために上京したくせに、芝居にかまけて大学をずるずる休み。両親の制止を振り切って中退して、ちっともフルサトに帰らなかった頃に亡くなってしまった、祖母のことも思い出し。私の胸もチクチク痛みっぱなしだった。
普段肉親に対して、とっても淡泊なAさんも「親に会いたくなった」と、この本を読んでもらしたように、私もとても自分の「オカン」であり「オトン」に会いたくなりました。読みながら、ずっと彼らに思いを馳せていました。それこそが自分にとことんかまけることだと噛みしめながら。そして、一応医療介護関係の仕事に携わっているものとして、誰かの死や病に慣れ過ぎてしまう(当たり前と思う)ようには、なりたくない。なってはならないのだなとも、思い直した。