死んでしまったぼくの見た夢/西岡兄弟

死んでしまったぼくの見た夢

私は西岡兄妹が好きだ。例えばそれは、彼らの漫画から、こんなコトバを見つけられるからだ。

地獄―西岡兄妹自選作品集

地獄―西岡兄妹自選作品集

人は生まれてきて幸せになることなど/決してないのに/親はそのことを身をもって知っているのに/それでも子供をつくるなんてことは/人殺し以上に凶悪な犯罪だと/ぼくは思う(ぼくの子供たちに)

彼らと書いたけれど「西岡兄妹」とはまさに名の通り。コトバを綴っているのが、兄。絵を担当しているのが、妹で。二人合わせて「西岡兄妹」を名乗っているというわけだ。

ぼくは悲しくなんかない/ただ/こことは違うどこか遠くの場所で/ぼくの心が悲しんでいる(悲しい恋の話し)

この共同作業が私は好きだ。そこにはヒトリでは作り上げることのできない心地よいズレがある。男性的な言葉とそれを裏切るような少女趣味な絵柄。もしくは、絶望的な言葉とそれを裏切るような感情のない絵柄。そのアンバランスが心地よい。言葉と意味もなんだかズレて私の元に届いてくるみたいだ。そのズレが風通しの良さを生んでいる。これは、アタマとカラダの繋がらない心地よさではなかろうか?もしくは、ココロとアタマの繋がらない心地良さではなかろうか?

残念ながら「死んでしまったぼくの見た夢」は、少し言葉数が多すぎて、説明的に過ぎるように感じてしまった。なんだか理路整然としすぎているような。だからむしろ私は「人を殺したい/女の子はそう思いました/理由はありませんでした」と、始まる「人殺しの女の子の話」のような世界を愛している。と強く感じた。

人殺しの女の子の話

人殺しの女の子の話

天国も地獄もありはしないわ、生活、生活、生活、あるのはそれだけよ

「毎日毎日ぐるぐると続く日常というものに飽き飽きとしてしまっていた」女の子が、お母さんとお父さんを殺してしまう話。女の子は「人殺し、人殺し、人殺し」と、三回唱えると胸がきゅんとするほどにときめくけれど。人殺しをしてもなお堂々めぐりのただ中にいるだけなのです。

幸せでも/不幸せでもありませんでした

そしてその堂々めぐりの中で感じるのは、幸せでも不幸せでもない、ただのっぺらな世界なのです。「西岡兄妹」を読んでいると、突然泣いてしまいたくなるのは。そののっぺらのせいだと思うのです。自分の底に眠っていたはずの密やかな気持ちに、突然めぐりあってしまうからだと思うのです。西岡兄妹を読み終える時「本当に怖いものって、ナンダロウ?」と、いつも考えてしまいます。考えて考えて考えてしまいます。