ポポが死んだ日。

東京に来てから、確か二度目か、三度目の夏だった。お盆で家に帰ると、いつも聞こえる、鎖をぞろぞろと引きずる音が聞こえなかった。不審に思いながらも家に入ると、出迎えた母から、ポポが死んだのを聞かされた。実家に帰るのも一年に一度か二度、自分の中ではそれでも多いぐらいに思っていた頃だった。

ポポはいつの間にか死んでしまったのだ。

ポポがわが家にやって来たのは、私が小学六年生の頃。父と、妹たちと車で二時間近くかけてもらいに行った。まだ子犬だったポポは、初めての車に酔ったらしく少し車を汚した。それでも、家に付くととたんに元気になって、私たちを安心させた。生まれたての柴犬の子犬。当時餌係を担当した母の独断と偏見で、ポポというおよそイヌらしからぬ名前は付けられた。ころっとした黒目の、ちぎれるくらいしっぽを振る、ピンとした耳のポポ。数えきれない脱走を繰り返し、子供達の気まぐれな散歩を待ちながら、母の作るあまりにヘルシーな食事にも耐え、ポポは、役に立たない番犬として可愛がられていた。


たいそうな年で、弱っていたとはいえ、突然のポポの死に、いつ?とだけ尋ねると、三日か、四日前という何とも曖昧な答えが帰ってきた。母は、さらに最期がとても苦しそうで辛かったこと、死んだときは涙が止まらなかったことを次々に話し出した。母の話もそこそこにポポの小屋に行ってみた。そこには、鎖とボロボロの首輪、餌鉢として使われていた取っ手の壊れた鍋が転がっていた。

ポポが死んだらきっと泣いちゃうんだろうなぁ。何となく漠然とそう思っていた。可愛がっていたのだし、長いこと私たちのお気に入りだったんだから当然そう思っていた。それが三、四日前と言われても、なんだかピンとくるものがないのだ。

そういえば最後に会ったのも、随分前になるような。虫の知らせというやつも、いくら考えても思い当たらないし。当然亡骸は埋められていて、見ることさえ出来ないのだ。泣きながらリンゴの木の根本に埋めたんだよという母の言葉が、得意気にさえ聞えて、私はむしろ悔しいぐらいだった。


午後、母の命令でポポの小屋や、寒いときに入れてあげた毛布なんかを燃やした。ガソリンをかけられた小屋からは、高々と火柱があがった。いつ帰ってきたのか隣には妹もいた。二人で言葉もないまま、ポポの小屋が音を立てて燃えているのを眺めていた。随分長い時間。どれくらい時間がたったのだろうか?小屋はもうすっかり灰になった。でも、火が消えてしまっても、なかなかそこから立ち去る気にはなれなかった。話すことも見つからないままその場にしゃがみ込んで、いつまでもいつまでも煙の流れる先を眺めていた。それは私たちなりの儀式だったのかもしれないけれど、ただ、だらだらとポポのための時間を使っていたかった。

あれ以来、わが家は犬を飼っていない。

今でも家に帰ると、無意識に鎖の引きずる音を探してしまう。ときどきは聞こえるときだってある。小屋さえ残っていないけど、ポポは何時だったあそこで私たちを待っていたなぁといつでも思う。一年に一度や二度の帰省だって、いつもの所でおんなじように私たちを待っていた。途方もないほどの時間を使って、ただ、私たちを待っていた。だから気休めなんかじゃなくて、やっぱりあの辺で、ポポは、相変らず気まぐれな私たちを、日向ぼっこなんかしながら、ずっとずっと待っていてくれるんじゃないかと。そう、思ってる。