麦の穂をゆらす風/ケン・ローチ

少し前のこと。ケン・ローチの「麦の穂をゆらす風」を渋谷のシネ・アミューズにて。見てきました。「ケス」であれ 「SWEET SIXTEEN」であれ、ケン・ローチが思春期と向き合った映画には、やるせない絶望的な結末が用意されている。だけど、私は彼の見せてくれるそんな「少年映画」が大好きなのだ。ラストにはいつも言葉を失って打ちのめされるけれど。それでも、それが決して後味の悪さには繋がらない。エンドロールの中、様々に表情を変えていく少年たちのあの顔が蘇るから。私はいつだって打ちのめされながら、ケン・ローチが用意してくれなかった、その先のハッピーエンドを夢想するのだ。 それは決して、辛くシビアな彼の映画からの、逃避ではない。彼の映画の中で様々に表情を変え、空を目指して舞い上がろうとしていた少年たちの、あの確かな顔を見ていたから。だから彼らに安心出来たんだと思う。そして私は、その安心が好きなのだ。 


そんな、ケン・ローチの「麦の穂をゆらす風」に、私は圧倒された。だから上手くは言えないかもしれないけれど、すごくすごくよかった。1920年アイルランド独立戦争から内戦へと進んでいく様を、私はほとんど釘付けになって見ていたと思う。独立戦争もさることながら、昨日まで共に戦っていた人々が敵味方に別れ戦わなけれどならないということ。「戦う」ということに向かわざるを得ない、それぞれの想いというもの。行き場のない場所に追いつめられていく人々が、でもしっかりと立って前を見ているように感じること。人が人と関わるということから逃げようとしていないこと。


だけど、この映画がスバラシイと思ったのは、おそらくそれだけじゃない。この映画のもつ映画としての色合いもたまらなかった。1920年アイルランド。その土地の持つ湿気や日差しや風の強さまでが私に届いた。画面のトーン。空気感。そこに伝わる民族の歌。その時代の人々の服装や建物や調度品。戦いの休息に歌い踊る様。ハンチングにトレンチにシャツにジャケット。名も無く貧しい一兵士達の、その姿のカッコヨサにしびれてしまったのだ。人々が歌い踊る時、そこに歌い踊らずにはいられない「魂」のようなモノを感じるし。人々が袖を通す洋服やそれぞれ被っている帽子を見ているだけで、そこに「意志」のようなモノを感じてしまう。


だから、何時でも何処でも、彼らはカッコヨク美しくあった。敵味方に分かれようと、どんな立場をとることを選ぼうと、あくまでもカッコヨク美しかった。そのカッコヨサの中から、ぬぐってもぬぐい切れないモノが伝わってくる。脈々と息づく誇りのようなもの。生まれ落ちてから死ぬまで手放すことが出来ない誇りのようなもの。


敵わないなあ。そう、思った。当たり前なんだけれど。当たり前なんだけど、どうしたって私なんかが、逆立ちしたって敵わないようなものが、この映画の中にはキチンとあって。それが美しくて素晴らしくて眩しくて。それらにただただ打たれるように釘付けになっていたんだと思う。