おそいひと

mitoのびる



いろいろあって有給をいただいていたのだけれど、いろいろあって有給の予定がそっくりキャンセルになった金曜日。少し拍子抜けした木曜日の夜だったけれど、朝になってみれば、断然ウキウキしている様子のまるっきりのオフの一日。布団を干して洗濯を片付けて植木に水を上げてねこにブラッシングをかけたら、予定していた今日分のあれやこれやがほぼ片づいてしまったので、「みるがいいよ」とすすめられていた映画にいそいそと行く。ポレポレ東中野でかかっている「おそいひとhttp://osoihito.jp/)」。


障害者が何やらしてしまう映画である。音楽はworld's end girlfriendなんだよ。ぐらいの前知識で出掛けたのだけれど。爆音ナイトは夜の七時の回からと聴いていたけれど、劇場に流れていたのは、心地よい爆音近くの音で。その音に唆されるように、私の心臓もどくどくどくとボルテージをあげていったように思う。いろんなことを思いながら見た。パンフレットにのっていた「おそいひと」は「こわいひと」という監督の言葉に頷いた。公式サイトのレビューに載っていたー「マイレフトフッド」のことを考えながら劇場に入ったあなたが、「タクシードライバー」のことを考えながら劇場を出ることになるーという言葉にも頷いた。塚本晋也の「鉄男」を思い出した。ハーモニー・コリンの「ガンモ」や「ジュリアン」を見終わった後の、説明の付かない高揚感も思い出した。


私は仕事柄障害を持つ人、いわゆる障害者と接する機会が多いのだけど、そんな立場の私から見て、住田さんの周りに人たち(若い)が集まってくる樣が、やけにリアルだった。住田さんには、磁場のようなモノが確かにある。住田さんに限らず、障害を持つ人には時折強い磁場のようなモノを持つ人がいる。そういう人に会ってしまうと、私はいつも目が離せなくなってしまう。住田さんを取り巻く若者たちも、意識無意識に関係なく何らかの磁場のようなようなモノに惹き付けられているのだと思う。そして、私は昨今の現場実習なんかで介護の現場にやってくる若者たちの中に「他人を恐れる」という、本来人間に当たり前にあるはずの感覚が希薄だなあと感じることがよくある。無防備に相手の懐に入ってしまうのだけど、それをさほど大きなことと感じてはいないのだ。それは決して悪いことばかりでなく、障害を持つ人と介助するものの「壁」のようなモノを壊す力を含んだものでもあるなあとも思ったりもするんだけど。だけど、やっぱり、おんなじではないんだよ。仲間にはなりえないんだよ。どこか上からの目線であったりするのだよ。と、ここまで書いてきたので、もう、この際なんだからと、誤解を恐れずに敢えて言い切ってしまいたいのだけどー住田さんはやはり捩れている。それは人間が持つ当たり前の捩れなんだけれど、それは障害者という要因によってさらに複雑な方向に捩れていると思うんだ。捩れたモノは本来禍々しい力がある。その力の大きさと醜さに、私は益々目が離せなくなりながら思ったのだ。禍々しさに気づかず、分かりやすく他人を理解し、人間を人間として恐れず接するってことは、とても危険なことなんだって。私は住田さんがボイスボードの機械音にのせていった一言が忘れられない。私はその一言を聞くまでの時間が、この映画の中でいちばん怖かった。心底、怖い。「こわいひと」だと思ったのだ。

コロスゾ。


最後にworld's end girlfriendのSinging Under The Rainbowが流れる。それはちょっとこの世の終わりのような、警告の書のような、大洪水の終わった後のような、不思議な静謐さと清潔さがあった。決して簡単には言えない美しさがあった。このままここにとどまりたいような力があった。それはやっぱり(しつこいようだけど)ハーモニー・コリンの映画を見終わって、自分の涙がいったいなんなのか理解も説明もつかずに混乱していたあの日の自分に重なった。それは例えば、自分が何処から来て何処へ行くのかというような永遠のナゾで。ナゾはナゾのまま、混乱し、やはりナゾはナゾのまま凪いでいった。ように思う。そんな昼下がりの映画館には、やはり自分の(涙になるほどの塩分を持たない)涙が、いったいなんによるものなのか理解も説明もつかずに混乱し、体をぴくぴくさせていた人がいたような。