ミスター・ロンリー@シネマライズ渋谷

makisuke2008-02-24



「昨日の東京には春一番がふきました。」と、今朝のニュースでやっていたのだけど、昨日の風の有り様といったら「春一番」などという生易しいものではなく、地面の土という土があらかた舞い上がってしまうような勢いで。何気なく目をやった窓の外が、セピアというか茶褐色というか黄土色に染まっていたのでびっくりし、屋上に登って風に煽られながら眺めて見れば、遥か遠くの景色は水色と茶褐色の二色のゼリーのように奇麗に染め分かれているようで。あれ、まあ。と、感心したものでした。そんな空と、ハーモニー・コリンの見せる水色の空から舞い降りてくる水色のシスター達の姿が重なった今日、とうとう「ミスター・ロンリーhttp://misterlonely.gyao.jp/)」をみてきました。


オープニングとエンディング。オープニングとエンディング。オープニングとエンディング。それがこの映画のすべてである。あった。と言い切ってしまっても過言ではないのじゃないか。とも思った。僕は孤独だ。僕は孤独だ。どうしてこんな目にあったのだ。ああ、僕はただ家に帰りたい。と流れる歌をバックに走る彼をみただけで、込み上げてくる感情はいつもながらに自分では説明も付けられないし、理解しがたいモノだった。ナゾがナゾのままあるのが、嬉しかった。見ながらは、随分「普通に」よい映画になっているなあと戸惑ったりもした。だけどだけど、見終わってみれば、後から後から湧いてくる余韻のようなモノに包まれて。音楽もすごくよくって。ちよっと今、苦しいぐらいだ。


ハーモニー・コリンは「この世界は確かにある」と、私に強く信じさせてくれる力を持ってる。今日もそう。エセマイケルやエセモンローやらチャップリンが暮らす世界が、確かにある。なくなっても、誰が去ろうと、そこにあって何時までも変わらず存在し続けると信じさせてくれる力がある。そこから出て行こうよと、たとえ監督が言おうとしているのだとしても、私の意識はそこにとどまる。そこが例え醜くてもメッキがぼろぼろとはがれ落ちていようとも、そこに居続けたいと思わせる力がある。私たちは、変わる力も、変わらなければならない時も、持ってる。それは大切なことだし必要なことだ。だけど、なくならない、なくなりようがない世界を持ってるってことも、もっともっと大切だし必要だ。そんなことを胸に刻んで映画館を後にした。


それにしても、ドニ・ラヴァンレオス・カラックスヘルツォーク(で、ヘルツォークって何処に出てたの?)がこの映画の中で見せてもらえるなんて思ってもいなかったなあ。あのポンヌフの橋の上で火を噴いていた彼が、白塗りのチャップリンになってたことに、心底驚いた。びっくりが大きすぎて、まだひとつに結びつかないけれど、彼がスクリーンに蘇ってくれたことが、心から嬉しくはある。