海辺のカフカ/村上春樹


海辺のカフカ〈上〉海辺のカフカ〈下〉海辺のカフカ」上・下巻を読み切った。まずは読み応え充分だった。ストーリー云々はさておいても。しっている作家のさらにいろんな作品に手を出したくなるきっかけの書としても、音楽の指南書としても読み応えがあるし。哲学や登場人物の考えと、自分の考えというものを比較したり確認しながら読み進めるという、独特の有意義な時間が持てたと思う。読んでいるということだけでも単純な楽しさがあった。いつものことながら、村上春樹という人は、上下巻という長さを感じさせない。読むことに少しの忍耐を強いてこないことがすごいなーと思う。すっと私の日常に溶け込んでくる感じがある。本というものが自分の一部になってるなーと思ったりする。


登場人物達が、すべてひとりの人間の(村上春樹そのもの)に感じられるのはいつものことだけれど。今回は、個性豊かな猫さんたちと、ナカタさんとホシノちゃんの存在が、私を随分楽しませてくれた。言い換えると、好きだとか嫌いだとかの次元で読みすすめられない村上春樹の本の中で、猫達とナカタさんとホシノちゃんのことが好きになれた。好きになって彼らのエピソードになる度に目を細めて楽しく読むことが出来た。それが嬉しかった。


物語を7割ほど読んだ時点で、拭い切れない疲労感のようなモノが溜まってきた。それは所詮人間は「運命」「宿命」みたいなモノの中で動いているのかな?ギリシャ神話さながらの世界でコマのように動かされているのかな?との思いが消えなくなってしまったから。すべての人が役割の中で生きていて、その役割を果たす為に存在しているのかな?なあんて考えてしまうと、私のちっぽけな人生観のようなモノは、とたんに空しさを覚えてしまうみたいなんだな。総ての人が、ドーナッツのように真ん中のぽっかりと空白に見えてきた。役割を与えられた(カタチの無いモノに支配された)時間だけが存在していて、後は空洞の穴ぼこみたいなモノなのかなー?私たちは大概の時間をその穴ぼこのような場所で生きてるのかな?などと考え始めると、今、この私が立ってる足下までグラグラとしてきた。


それでも、その疲労感と戦うように、私なりに頑張って最後まで読み切った(笑)。最後には私の感じた「空しさ」のようなモノをひっくり返そうとする力があった。満身の力を込めて石をひっくり返すホシノちゃんさながらに。確かにあった。「ある」モノは「ある」として、それをひっかく返す「力」があった。その「力」や「意志」こそが、世界を再編成していくのかもしれないと、思えるものをいただいたような気持ちになった。誰にもある、私にももちろんある、抗いがたいもの。すでに存在していて動かしがたいもの。自分が招いてしまった因果のようなもの。単純な己の間違い。それはそれとして、変わらずにあり続けるのだけど。私たちは、それに負けずとも劣らない修正機能を備えた生き物なのかもしれないねえ。


この所続けて村上春樹の作品を読む機会に恵まれた。「神の子どもたちはみな踊る」と「海辺のカフカ」。そのどちらにも「人生におけるいつかの時点で曲がったり歪んでしまった出来事を明るい方へ正しい方へと向かわせようとしている、希望のようなモノが感じられた。


人は生きている。ただそれだけのことで、たくさんの歪みや捩れを産んでしまう生き物かもしれない。それでも、それを正そう、正しく明るい方向へ向かおうとする力もまた、人間に備わった最大のチャームポイントだと、私は思う。それがある限り、本や映画や音楽は無くなることはないだろうし。人を愛したりする気持ちが涸れることはないんだと思う。