コントロール/アントン・コービン



イアン・カーティスという男がたまらなく愛おしかった。
妻と愛人ー彼はただ二人の女の間で揺れて苦しんだだけじゃなかったー。


シネマライズ渋谷で、楽しみにしていた 「コントロール」をみる。「ジョイ・ディヴィジョン」のイアン・カーティスの物語をアントン・コービンが撮ったというこの映画。みている間中ずっとずっとサム・ライリー演じるイアン・カーティスという男がただ愛おしくて愛おしくてたまらなかった。彼の滑稽にすら映りかねない純粋さにわたしは素直にうたれてしまったように思う。彼のその佇まいや表情から、伝わるものは少ないんだけど。だけど、いや、だから、だからこそかな?わたしには真っ直ぐに強く強く届いたんだ。彼は、ただ、妻と愛人という二人の女の間で揺れて苦しんだだけじゃなかったんだー。


誰かに愛されなくなってしまうということは、もちろんとても辛いことだけど。誰かを愛せなくなってしまうことも、同じくとても辛いことなのだ。「愛する」という言葉と行為を信じて尊ぶものならなおのこと。その言葉と行為が何かしらの道しるべだった人間だったらなおのこと。その言葉と行為を真っ当できない自分というものに、激しくがっかりしてしまったんだよ、彼は。シンプルで無垢だった自分が躊躇うことを知らずに使った言葉と行為。それは一時の青さや幼さ頑なさに置き換えられるのかもしれない。一時のことたぶん一時の。それが分かってしまうわたしという人間はイアンより遥かに年を取ってしまったのかもしれないけれど、だから、余計に、彼に画面越しにでも語りかけずにはいられなかった。「そっちにいかないで」「かえってきて」と。彼はてんかんという病を抱えてた。発作に見舞われのたうつ姿はあまりに痛々しい。「ジョイ・ディヴィジョン」という実態さえわからない怪物のような存在を抱えてた。それでも彼を一番苦しめたのは、シンプルで無垢だった自分自身なんだな。


一言で言ってしまえば、青く幼く頑なだということかもしれない。それでもその青く幼く頑ななものだけが辿り着ける高みというヤツが確実にあるのだ。両手を振りさらに振り激しくー反動をつけて飛べない場所から飛び立ちたいというように彼がうたう姿は、わたしの中のわたしを掻き立てるもので出来ていて。彼という人間は、そのままわたしを掻き立てるものでできていた。焦点のあわない熱に浮かされたような目で、それでも先をみて。彼が生きていた姿ばかりわたしの脳裏に焼き付いて離れないのは。どうしてなんだろう?どういうことなんだろう?


どこにでもあるかもしれないことなんだろうけど、これは、やっぱり、あり得ないことなんだよな。「身につまされる?」って、ちよっとからかいがちに笑われたけど。この物語が彼の彼だけの物語だって分かったから「うううん」と右に左にと首を大きく振って答えにしたい。だってさ、イアンみたいな愛し方できる人って、きっといない。イアンみたいに信じられるモノもてる人って、きっといない。イアンみたいにうたえる人イアンみたいに生きられる人、絶対絶対いないから。そんな彼だからこそ、自分自身に自分の愛しいものに自分の信じるものすべて集めて復讐されなくっちゃならないんだ。


サマンサ・モートン演じるデボラの呼びかける「イアン」て響きがとても好きだった。いつも甘くて切なくて甘かった。たぶん彼をあんな風によべる人って、きっといない。絶対絶対いないと思うから。