「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」と「ねじまき鳥クロニクル」とわたしのあれこれを考察する

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫) ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫) ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫) 村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)


村上春樹河合隼雄に会いにいく」を読んでいると、何度も何度も「ねじまき鳥クロニクル」の話が出でくる。その度に「ねじまき鳥〜」を読まないことにははじまらないのではないかという気持ちになった。そして、その中で語られる夫婦の話がココロに残った。「夫婦が相手を理解しようと思ったら、理性だけで話しあうのではなくて『井戸』を掘らないとだめなのです」という部分がすごく気になって。そこで何度も語られる「井戸掘り」というのは一般的な例えなんかではなくて「ねじまき鳥〜」を読まなくては真に分からないのだろうと思って。わたしはその「井戸掘り」を切実に知りたいと思って。文庫本三冊分の「ねじまき鳥クロニクル」読んでみた。そして、その熱も冷めやらない内にもう一度「村上春樹河合隼雄〜」を読みかえした。まだ総てが胸に落ちたというわけではないけれど、このしばらくの間の密な読書は、わたしにはとても有意義だったし。単純に楽しい本の続きが待っているということは、もうちょっと生きてみようかという希望につながったりもするんだよなあ。なんて。

「井戸を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです」

海辺のカフカhttp://d.hatena.ne.jp/makisuke/20080316#p2)」も「ねじまき鳥〜」も、デビット・リンチで映画化したらどうかなあといつも思うわたしなのだけど、それはさておき、オカダトオルさんはクミコさんにコミットメントしようと必死になっているのだけど、彼の努力はとても虚しくみえる。意味をなさないかにもみえる。彼女はココロを閉ざして遠のくばかりで丸っきり手応えがない。まるで黄泉の国に旅だってしまったかのように姿形もぼやけてみえる。それでも彼はクミコさんにコミットメントするということを諦めない。彼女から届く声がどんなに小さかろうと、彼女が自分に向かって助けを求めているということを信じている。その虚しくもみえる戦いの過程の中で、彼が彼女を信じ、待ち、求めているという姿に触れる人々が、何らかのカタチで癒され、救われ、軌道修正していくということが、ココロに残った。


オカダトオルさんは未だ(もしくは、永遠に?)救われないけれど、オカダトオルさんの周囲の人々はー笠原メイであれ加納クレタであれ間宮中尉であれナツメグであれシナモンであれ名前のない客達であれーなんらかのヨキモノをいただいて(もしくはなんらかの肩の荷を下ろさせてもらって)ほんの少しずつであろうとも、救われているのだ。それはオカダトオルさんの持つ宿命のようなものかもしれないけれど、彼は自分に起こったことを否定せずに受け入れている。なんとか愛情という絆からはぐれないように頑張っている。その頑張りが、台風の目になって、いろんなヒトにモノに正しい作用を及ぼしているのだなあと思った。


そして、小説書くというのは、すごく自由なんだなあとも思った。村上さんは声高ではないけれど、物語というカタチを借りて、わたしたちになんらかのコミットメントをしているのだなあと思った。それはわたしたちもオカダトオルさんと同じように井戸を掘って掘って掘って行かなくてはつながれないことなんだと思う。簡単な答えというカタチでは現れてこないと思う。それでも、掘って掘って掘ってみたくさせてくれた村上さんという書き手に、わたしは感謝したいと思ったし。オカダトオルさんの周囲の人々(笠原メイはじめ、その他多数)と一緒だと思った。わたしも少しではあるけれど癒され、救われ、軌道修正させてもらっているのだなあと思った。


村上さんは対談集の中で何度か物語を書くと言うことは自分が癒されることでもあると言っている。「自分でプログラムを作りながら、なおかつ同時に自分がそのプレイヤーでもある。そして自分がゲームをプレイしているときには、自分がゲームをプログラムした記憶は完全に失われている」と。その感覚は、わたしには少しだけわかる(たくさんと言ってしまうのはあまりにもおこがましいので…)。自分を癒していくのは自分でしかないのだし、そのために言葉や物語を求めるというのは、わたしにとても近しい感覚なのだ。わたしが求めている感覚なのだ。


自分の中にある暴力性のようなモノに無自覚ではいけないのだなということも強く思った。「わたしはそういう暴力性をもっていますよ」と知っているということの大切さ。自分の中に蠢くものに対する意識化ということの大切さ。そんなことを思った。わたし自身の話で恐縮なのだけれど、この数年というモノ。自分の中に想像もつかないような様々な感情が潜んでいるということに、嫌というほど気づかされた日々だった。気づいたのだけど、結局はそれに振り回されて戸惑い無意味に傷ついてばかりだったようにも思ってしまう。わたしは表面的な「平和」にこだわりすぎていたのかもしれないし。自分が被害者だと信じて譲らなすぎたのかもしれない。小さな声に耳を澄ますことをしてこなかったし。井戸を掘ることをサボっていたのかもしれない。読みながら、自分はオカダトオルさんにとても近しい立場だし共に戦っているのではないかというようなシンパシーも感じていたんだけれど、残念ながら、わたしはまだ井戸の底にさえ辿り着けていないのかもしれない。井戸を掘ることさえはじめていないのかもしれない。わたしはまだ、ただただ街角に立って、来る日も来る日もそこに行き交う人たちの顔を眺めていなければいけないのかもしれない。そんなことを思ってクラクラした。


だけど、それって、まだまだこれからだってことだよね。わたしまだこれからだってことだよね。って、誰に確認するわけでもなくヒトリ自分に確認してみる雨上がりの月曜の夜のことだった。