NHKアーカイブスをみながら「そこに安住してはいけないということ」について考察する。

歩道橋にのぼる


 

日曜日の夜に楽しみにしていた「NHKアーカイブス」が土曜日の朝に引っ越ししてしまいました。すごく残念。アナウンサーの妙齢の女性もいい感じだったのになあ。日曜日の夜。少し夜更かししてヨーガでカラダをほぐしながらアーカイブスをみるのは、わたしの中では儀式のような時間だったのになあ。いい番組にもたくさん出会えたのだけどなあ。と少しご立腹。それはちょうど高山なおみさんにとってのサザエさんのように。行ってしまう休日にちょっと感傷的になってみる大事な時間だったのになあと。そもそも土曜日の朝10時なんてさ、ゆっくりテレビの前に座ってなんかいられないじゃない。ねえ。洗濯したいなあ、布団も干せそう?掃除機かけて雑巾かけもはじめないと午後から遊びに行けないね。と、どうも落ち着きがない。それでも、昨日の土曜日のアーカイブスは、珈琲をドリップしてから腰を落ち着けて(むしろ頑張って落ち着けて)しっかり見ることができました。斉藤茂太ご夫婦のお話はとてもおもしろく興味深くみさせていただきました*1。先日読んだ「村上春樹河合隼雄に会いにいく(http://d.hatena.ne.jp/makisuke/20080414#p2)」を思いだしたり。夫婦というものについて思いを馳せたりしながら、丹念に淹れた珈琲をずるずると飲んだ。

村上さんが言っていた「冷静な相互マッピング作業」について(以下長めの引用↓)
村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

僕自身は結婚してから長い間、結婚生活というのはお互いの欠点を埋めあうためのものじゃないかとぼんやり考えていました。でも最近になって(もう結婚して二十五年になるのだけど)、それはちょっと違うんじゃないかなあと考えるようになりました。それはむしろお互いの欠落を暴きたてるー声高か無言かの違いはあるにせよー過程の連続に過ぎなかったのではないかと。

斉藤茂太さんは、奥さんに言われた様々なお小言や辛辣な意見を「美智子語録」と銘打って手帳に書き連ねられていた。味のある文字と美智子さんの言葉のままに書かれたお小言は、端から見たら微笑ましく楽しげなエピソードにもみえてしまうのだけどー。当の本人にしてみたならば、最初はどうしてこんなに言われなき攻撃を受けねばならぬのか、人格否定ではあるまいかと、憤り半分で書き留めた行為でもあるのではなかろうか?これこそがまさに村上さんのいうマッピングでー「どうして切手を曲がって貼るの」「あなたのものの食べ方は下品ね」「あなたはイエスマンね」「わたしは人道主義者、あなたは…」などなどー声高に欠点があげ連らねられているのだもの。自分に向けられたらしんどいだろうなあと思ったりもした。それでも、番組は「冷静な相互マッピング作業」のその先を映していて、わたしをほころんだ気持ちにさせてくれた。茂太さんが「美智子語録」に卑屈になることも悲観的になることもなく、美智子さんの視点を自分の第三の目のように受け止めていることを、素晴らしいなあと思った。お小言を、相手の思いやりと自分の至らなさと受け止めているところ。それも自然に。それはそれとそのまんまあるまんま受け取れているというところ。いいんだよなあ、茂太さんの風貌含めたいろいろ総てが。そしてオシャレで物腰が柔らかい美智子さんという人もとてもいいんだよなあ。美智子さん自身は美智子語録に書かれていることなどけろりと忘れてるあたりも。これが、夫婦25年の村上さんと、その先を歩いた斉藤ご夫婦の違いなのかもしれないと、してやったり(?)の気持ちにもなったりしたし。「宗教性ということを実感する入り口のひとつは夫婦の関係ではないかと思うのです」という河合さんの言葉も、すとんと胸に落ちてきた。夫婦に限らず誰かときちんと親しくなっていくということは、マッピング作業をはじめていくということかもしれないし。誰かが何かを言う、言ってくれるということは、自分に対する働きかけがあるのだし。その言葉や行動は必ず自分の何かしらの言葉とか行動に起因しているはずだと思う。だから、イタズラに傷つくのではなく、大きく歪めて嘆くのではなく、「それはそれとそのまんまあるまんま」受け取らなくっちゃいけないね。自分の中に一度はきちんと引き受けなければいけないね。そのまんまの言葉で。まずは一度自分に落とし込んでいかなくてはね。


わたしは近頃、「わたしはわたしのじんせいをひきうけているだろうか」ということをよく考える(たぶん答えはNOに限りなく近い)。「わたしはわたしにおこっているもんだいをきちんとひきうけているか」と(たぶん答えはNOに限りなく近い)。わたしは何処かで、「わたしは不幸になった/なぜわたしだけが不幸なんだろうか/責任は誰それにあるのだから/わたしの不幸をどうにかしてちょうだいよ」と、言い続けているように思うのだ。「不幸」というと、大げさでどきりとさせてしまうけれど、もっと些細なこと小さなトラブルもおんなじスタンス。物事を抽象的に捉えたり、マッピングしてしまったりの繰り返しになっている。事実を事実と受け止めるということ。相手の中にも自分をみると言うこと。そして、傷つけられている。被害者だ。という意識から抜け出さなくてはいけないということ。そこに安住してはいけないということ。フラットな地面に立つ所からはじめなくてはということ。


考えてばかりで、なかなか答えには結びつかないけれど、とりあえず昨日のアーカイブスがたくさんヒントをくれた。言われたことを「書き留めておく」ことも悪くないと思う。その時は感情的になることもある。こちらの気持ち次第で悪く歪んでとってしまうこともある。自分の中でアタマから否定したくなることもある。それを一定の距離をおいて眺められるように。誰かがわたしにコミットしてきてくれているということ。なかなか頑ななわたしのココロにノックをしてきてくれているということ。忘れちゃいけないと思った。そんな日曜日の朝から昼。「新日曜美術館」の川鍋暁斎にまたまた魅入ってしまったワタクシ。近頃魅入り過剰気味ではあるけれど。まあ。

*1:以前より斎藤家の方々には興味があるのですね。茂吉さんや北杜夫さん、そして伝説の多い輝子さんまで実に興味深い人々だなあと、北さんが言っていた「斎藤家は変人の集まりですから…」に笑ってしまいました