ほぼ地獄。ほぼ天国。/中野翠

ほぼ地獄。ほぼ天国。
「人間が馬鹿なだけに感じ方が激しい」とは、まさしくもって私のことではないだろうか。上手い。上手すぎる。古今亭志ん朝が落語「佃島」の中で、与太郎を評していうコトバらしいのである。らしいとは「ほぼ地獄。ほぼ天国。」の中で見つけたコトバだからだ。このコトバに出会えただけでも、この本を読んで良かったと今しみじみと思ったりする。

悪口や文句や不平不満を言わずにすます人よりも、言わずにはおけない人を愛している。中野翠森茉莉も愛している。その少々愛されづらいサガ(性)やタチ(質)を愛しく思う。その腹の括り具合を潔しと思う。品や格のある悪口。愛嬌ある小言言い。そんな年寄りになってみたいモノである。大体「まあ!!」とか「ねえ」とか言う人よりも「ケッ」とか「フンッ」とか言う人をしみじみと見てしまうし。偉い人よりも、偉そうな人に愛着があり。何かにつけて格好良く決まる人より、ダメでぐずぐずが私のトモダチである。くだくだしない人より、する人が。愛してくれる人より、いぢめてくれる人が、とにもかくにも好きなのである。それはひいては自分愛するということで、許すということで、とどのつまり私もそういった人である。

そんな私が、ついつい忘れてしまうことがある。「自分を笑い飛ばす」ということ。そんな私だからこそ、うっかり見誤ってしまうことがある。「自分がいかに小さく取るに足らないか」ということ。そんなときに読むのが彼女の本である。「合いたかった人」を「お洋服クロニクル」を「ふとどき文学館」を「千円贅沢」を読みたいのである。もしくは、彼女の本を読むから、そんな気分になるのかもしれない。かっこいいモノ、きれいなモノ、大事なモノを取りすぎた後にも、それが自分に過ぎたと感じた日には、やはり彼女の本を手に取るのである。世の中は、いやいや、少なくとも私は、もっと雑多でもっと間が抜けていて大概の人にはどうでもいいことで出来ている。だから愛おしいのだし、こうやって今日を生きていられるんじゃなかろうか。なんて。またすぐにそんな気分になってしまう私、なのだけれども。

今までに一年を振り返った試しがない。それでも毎年彼女の日記を読むようになった。2001年。改めて辿り直す世界は、失った年だった。えひめ丸や歌舞伎町の火災では、家族や友人を。そして、あの日失ったのは、世界貿易センタービルだけであるはずがない。歌舞伎界では中村歌右衛門を、山田風太郎ジャック・レモンを、そして、古今亭志ん朝を失ったのも、落語界だけに留まらない。まさに地獄のようなことばかり。それでも、毎年毎年彼女の日記は、面白くなっている。毎年毎年私をさらに面白がらせているのである。これこそ天国とでも言えばいいのか。私の知りたいこと、知りたくなったことが、詰まっているのである。自作のイラストと書き込みが「得した」気分を盛り上げてくれる。この人はきっとおまけの楽しさ、余分の楽しさ、舞台裏の楽しさも知っているのだ。

ごめんなさい。今回は完全に、自分のために書く。と、ことわって書き上げられた志ん朝さんへの文章は、それでも私を強く強く揺さぶりました。「文楽志ん生も円生もいない。でも、まだ私たちには古今亭志ん朝がいる。志ん朝ある限り落語はちゃんとそこにある」好きを持とう。ココロからそう思った。近目な私は、今もって世界も世の中も近しい人のことさえも、よく見えない。それだからこそ、好きだけ持って生きて行こう。書くということが、彼女がすがりつく杖のようなモノであったにせよ、それでもこんなに面白かったのだ。その事実が私をこんなにも嬉しがらせているのだから。