檀流クッキング/檀一雄

makisuke2003-04-07

檀流クッキング (中公文庫BIBLIO)
文庫本を手に入れて「檀流クッキング」を読む。頁を捲っていくにつれ、こんなに愉快な気持ちになるとは。こんな快活な気持ちになるとは。正直、思いも寄らぬ発見だった。

自分の好みで、どうにでもなさい

壇一雄の言葉である。この本を貫いている姿勢のようなものでもある。決まりごとも決めごともない。材料にだってうるさくは言わない。手に入らないものはさっさと諦めるし、いくらだって代用が効く。料理の本だからといって、詳しいレシピが載っているわけでもない。お世辞にも親切とは言えない。いわば不親切極まりない一冊なのである。

檀一雄の言葉は、いささか大上段に構えているように感じるかもしれない。そもそも、金井美恵子がこの本を「マッチョ本」と野次っていた記憶だってある。確かに、その気持ちも分からなくない。言葉の端々は何となくぶっきらぼうだ。それでも私には、その不親切さぶっきらぼうがいっそ心地よく。むしろ頼もしく。私を愉快にさせてくれるのだ。「作ってやろうじゃないか」そんな「力」にも似た気持ちがむくむくと湧いてくる。

そしてこの本に登る「素敵な」食材たちと言ったら。

牛のタン(舌)だの、ハツ(心臓)だの、ミノ(胃袋)だの、センマイ(胃の付属物)だの、豚のタンだの、ハツだの、ガツ(胃袋)だの、レバーだの、マメ(腎臓)だの、子袋だの

読んでいるだけで「何となしに、野蛮な飲食の快味が広がって、人間に生まれた仕合わせがつくづくと感じられ」てしまうではないか。ああ、なんと「力」のある食べ物たちだろうか。
 
私は思う。食事の源はつくづくと「野蛮」なのだと、その醍醐味こそが私たちの日々を養う「力」であるのだと。私はこの本を読んで、猛烈に内蔵料理が作りたくなったし、それをがつがつと食べたくなった。気力と言えばいいのだろうか、自分の中で何かが満ちていくのを感じたし。目が覚めるようなすがすがしさも覚えたのだ。それはなかなかに楽しい気分で。はしたないけれど、まさにこの感覚こそが「食欲」と言うのではなかろうか。とヒトリほくそ笑んだのだ。

「野蛮」ついでにもう一つ。この本の中に何とも素敵な「筍料理」を見つけた。一度は試してみたいものである。まずは、竹林に分け入って掘り立ての(でなくっちゃいけない)筍を用意する。その尻の部分から、ドライバーを突っ込んで、節をくりぬき穴を開けてやる。その穴の中に生醤油を突っ込み、大根で栓をして(!)、酒を振りかける。それを焚き火に頭を下にして突っ込んで蒸し焼きにするというのだ!

と私はともかく、檀先生までも、まるで根っからのマッチョみたいに書いてしまったが。それは穿った見方でもある。この本の中には、何とも繊細で心温まる、惣菜や漬け物や、手のかかる煮込み料理なんかが、いくつも出てくる。「柿の葉ずし」や「梅干し・ラッキョウ」や「オクラのおろし和え(川上弘美さんのエッセイにも登場)」や「ビーフシチュー」やひじきやおからやキンピラゴボウなどなどである。それらがなんとも簡単(な風)に、事も無げ(な風)に書かれているのだから。私とて「作ってやろうじゃないか」と身を乗り出してしまうというわけだ。

この本には、長年当たり前に台所に立ち続けていた人ならではの、目線と手際と才覚が溢れている。その「当たり前」を楽しみショーアップし、パワーアップしていく意気込みが溢れている。

だからこの本はひどく不親切な料理指南の本であるけれども、ひどく力が沸いてくる本である。生きていくための、起爆剤のような本でもあると言っても大げさではないと思うのだ。